2018-12-30

なんてことないこと





今日は朝からずっと仕事をしていたら、かわりに夫が水回りのコーキングを張り替え、洗面所の床と台所の吊り戸の中を拭き、ホールケーキ用の大皿6枚とケーキを焼く道具を洗ってくれました。おひるごはんもつくってくれました。広東風チャーハンとサラダとお味噌汁。お米を買ったのも一年ぶりくらい。おいしかった。

ところで今回の「土曜日の読書」、これは小説ですか?とメールを貰ったのですが実話です(場所はフェイクを入れてます)。強制退去になったその当日は、みんなで荷物運び出し大会になったとのこと。10階建のアパルトマンなのに。

2018-12-28

ふりだしは、かりそめごとの





土曜日の読書」更新。大杉栄『日本脱出記』について書きました。これで2018年の書き物はおしまい。今年はめいっぱい遊んだ一年でした。来年はますます没頭して遊びたいです。

ところで、さいきんロビン・ギルさんと、狂歌についてあれこれメールでお喋りするという幸運に浴しました。藤井乙男監修『蜀山家集』付録の「狂歌小史」は藤井氏ではなく金子実英の作であることや、黒田月洞軒が鯛屋貞柳の兄弟弟子であることもご教示いただき、早速、過去記事を修正・加筆。ギルさん、ありがとうございます(画像は robin d. gill "Rise, Ye Sea Slung!")。

* * * * *

五世川柳の「遊女五俳伝」を読んでいたら、面白い句があったので、いくつかメモ。

君は今駒かたあたり郭公  高尾

「君は今」のフレーズにめっぽう弱いんで、ツボに刺さります。ちなみにこれまでの人生最高の「君は今」は、こちらに書いた

ヌアヌ風そよ吹くあたり君は今、碁かマージャンか午後三時なり   赤松祐之

です。あと、この高尾が心に染まぬ客の相手をしながら詠んだ、

いのししにだかれて寝たり萩の花  高尾

も、芭蕉〈一つ家に遊女もねたり萩と月〉を思い出すまでもなく良い風情です。

ふり出しハかりそめごとのさつき雨  野風

これも知的でうっとりしちゃいます。「月が綺麗ですね」に見られるような男女の仲に限らず、人と人との距離をしつらえる際に言葉の機知を利かせるというのは、とても心躍る作法です。

2018-12-27

(memo 2018-)






2018年
12月
俳句12月号 エッセイ「夜空の石」
ぶるうまりん37号 エッセイ「古典の手触り、機知の手触り」 
ウラハイ○土曜日の読書 アナキスト(大杉栄『日本脱出記』)
ウラハイ○土曜日の読書 バオバブ(川田順造『サバンナの博物誌』)
ウラハイ○土曜日の読書 居場所(安部公房『壁』)
ウラハイ○土曜日の読書 てがみ(中川李枝子他『こんにちはおてがみです』)

11月
みみず・ぶっくす(mimizu books)開設
東京新聞文化面 エッセイ「私の本の話」
オルガン15号対談「翻訳と制約 〈漢詩〉の型とその可能性を旅する」(お問い合わせ先 : organ.haiku@gmail.com )
週刊俳句第600号 エッセイ「日曜のカンフー いつかたこぶねになる日」

10月
週刊新潮「掲示板」近況と質問

09月
詩客 俳句「出アバラヤ記/水脈」
日本経済新聞「読書日記」第4回原民喜『原民喜童話集』
日本経済新聞「読書日記」第3回ニーチェ『この人を見よ』
日本経済新聞「読書日記」第2回ブローティガン『西瓜糖の日々』

08月
日本経済新聞「読書日記」第1回青木正児『琴棊書画』
ウラハイ○週末俳句「署名と花籠」 
イシス編集学校・半冬氾夏の会〈特別公開篇〉「二〇一八年夏秋の渡り」小津夜景 × 小池純代 × 松岡正剛トークイベント

07月
『カモメの日の読書』『未明02』刊行記念トークイベント/小津夜景 × 蜂飼耳 × 外間隆史「海外翻訳文学としての漢詩~古典との新しいつきあい方」
週刊俳句第585号 「器に手を当てる 宮本佳世乃『ぽつねんと』における〈風景〉の構図」
週刊俳句第584号【俳人インタビュー】小津夜景さんへの10の質問

06月
新刊『カモメの日の読書 漢詩と暮らす』(東京四季出版)刊行
小津夜景日記別荘(新刊紹介サイト)開設
喜怒哀楽98号 リレーエッセイ「南の島に憧れて」

05月
豆の木22号 宮本佳世乃「ぽつねんと」評

04月
未明02 作品「ゼリーフィッシュと遠い記憶」
喜怒哀楽97号 リレーエッセイ「ふしぎな奥義」
週刊俳句第575号 ハイク・フムフム・ハワイアン6「自由律俳句のスピリット」
週刊俳句第572号 ハイク・フムフム・ハワイアン5「続・荻原井泉水とハワイ」
週刊俳句第569号 ハイク・フムフム・ハワイアン4「荻原井泉水とハワイ」
俳句四季4月号 競詠10句「花と夜盗」およびエッセイ

03月
週刊俳句第568号 ハイク・フムフム・ハワイアン3「俳句の電報、俳句の香木」
週刊俳句第567号 ハイク・フムフム・ハワイアン2「渓谷のハイキング」
川柳スープレックス インタビュー「小津夜景さんの好きな川柳・俳句・短歌」
俳誌要覧2018 漢詩をめぐる随筆&翻訳「恋は深くも浅くもある」
ウラハイ○週末俳句「春のお買い物」

02月
週刊俳句第566号 ハイク・フムフム・ハワイアン1「新年、マイナのなきごえより。」
喜怒哀楽96号 リレーエッセイ「てぶら生活」
週刊俳句第563号 トップ写真と小文「火力発電所」

01月
八上桐子句集『hibi』(港の人)栞文「銀の楽器をもたらす手」
文芸誌『しししし』 作品40句「風のデッサン」および漢詩翻訳

2018-12-26

言葉を〈工作〉する





佐藤りえ『景色』には、日常の見え方に少しだけ手を加えたような工作的作品があって、その美術作品っぽい雰囲気がまことによろしいです(*これは豆本ではありません。洗濯バサミが大きいのです)。

雲を飼ふやうにコップを伏せてみる  佐藤りえ

普段からしているなんでもない行為を、言葉のタグをつけることで、全く新しい世界としてインスタレーションしてみせる感覚。この句は「雲を飼ふ」と「コップ」の取りあわせが、センスの見せどころでもありますね。

オルゴール盤いつぱいに春の星座  

そう、ディスク・オルゴールは星座盤そっくり。機械仕掛けの自鳴琴、天文学の香り、そして「いっぱいに春」といった言葉づかいがきれいな化学反応を起こして、少しも難しくない見立てでありながら、発見の気分を醸し出しています。

しはぶいてあたまの穴のひろがりぬ
中空に浮いたままでも大丈夫
しぼられてあはきひかりの世となりぬ

これらは作者の偽らざる所感でしょうか。ともあれ、こんなふうに作者が、自分が生きてゆくためのオリジナルなタグをつくろうとして言葉を〈工作〉する様子には、個人的にとても触発されました。 というのも、俳句をやっていると〈世界をよく見る〉ってどういうことだろうと考えることが多いんですよ。そんな折『景色』を読んで、ああ、そういえば「あたりまえを捉え直す」行為こそが〈世界をよく見る〉ことだよね、とシンプルに思い出したり、ああ文学でなく工作がしたいなあ、と欲望したりしたのでした。

2018-12-24

12/23-1/14 ほりはたまお POP UP SHOP





いつもお世話になっている神戸元町の1003さんで、昨日からほりはたまおさんのPOP UP SHOPが開催中です。店内でビールも飲めます。お店へのアクセスはこちら。(

2018-12-22

記憶の中の最古の「詩」





「土曜日の読書」、更新しました()。川田順造『サバンナの博物誌』を取り上げています。
* * *
昔の記憶で、はっきりと覚えていることのひとつに、詩という言葉との出会いがあります。

3歳のころ住んでいた家の居間には、両親が結婚祝いにいただいた4尺5寸の横額が掛かっていて、幼いわたしは、毎日その横額を眺めるともなく眺めて暮らしていたんです。それがあるとき、まさに突然、そこに描かれている何かが文字であることに気づき、母に「なんて書いてあるの?」とたずねた。すると母は、

「さあ。あれはね、おとうさんの作った詩を、おともだちが書にしてくれたのよ。」

これが、わたしの記憶において「詩」という言葉が登場する最古のものでして。でね、この話を他人にしたら変態って言われました。

記憶の中の最古の言葉、なんて視点は気狂いじみてるって。

でもわたしは、記憶にしても、体験にしても、意味のあるなしにはあまり関心がなくて、いつなんどきも〈初めての日のこと〉を想うのが癖なのでした。



2018-12-17

歌うことの衝動性





いつも覗いているsnowdropさんのブログより()。


「シャッポンをかぶって行きや」母の母が母へかけたる声し思ほゆ
「シャッポンをかぶって行きや」母の母が母へかけたる声し遠しも
「シャッポンをかぶって行きや」母の母が母へかけたるはるかなる声

Porte ton chappon(chapeau) !
la mère de ma mère
disait à ma mère
dans son enfance
il y a longtemps

ほんの少しだけ違う短歌を3つ並べる作法は、なんだか3つの梨を寄せた静物画(桃でもいいですけど)を眺める気分です。そしてフランス語版の、なんという深き味わい。

もちろん、詩作の勘所というのはあっさりと言語を越えます。レーモン・クノー『文体練習』で

L'autobus arrive
Un zazou à chapeau monte
Un heurt il y a
Plus tard devant Saint-Lazare
Il est question d'un bouton

という短歌を読んだときも、クノーが七五調の韻律をよく理解していることに感動しつつ、ま、そうだよねと思いました。
でね、snowdropさんの短歌ですが、歌うことの衝動性が全く失われていないところが素敵です。ブログを拝見していると、軀の温度、胸の鼓動、喉の振動がそのまま形になったような、血の通った囀りばかりでほんと楽しい。

書くときは、いったん言葉を捨て、歌い出しの息へと還ること。記憶の中や身の回りの物音に耳をすますこと。そして胸をつんざく衝動から始めること  そんなことを思いながら。

2018-12-15

私に言葉を与えるもの




土曜日の読書、更新しました()。北方領土の思い出です。
* * *
海へゆくと、カモメが水の上で、影文字を描いていました。

文字のかたちが移り変わってゆくのが、楽しい。

私は、これまでの人生で一番長く住んで、よく知っている場所というのが、学生時代を過ごしたパリと京都なのですけれど、このふたつの町のことは、他人から尋ねられてもうまく話すことができないんですよ。

なにも言うことがない。自分でも怖いくらいに。

で、どうしてだろうと長い時間をかけて内省するうちに、海のない土地の話はしない、といった強い傾向が自分にあることに気づきました。

海は、そこにあるだけで、私の中の柔らかい部分をきざんだり、はぐくんだり、するようです。

そしてまた私に言葉を、さらには文字を与えるものの正体も、どうやら海なのでした。

2018-12-13

「世界」と「自由」



江戸時代の狂歌において、「世界」や「自由」といった語はどんな使い方をされていたのか、てなことを調べてみました。

これを調べようと思ったのは、

三千世界のからすを殺し ぬしと朝寝がしてみたい

がふと頭に浮かんだから。この都々逸って、ほんのり縁起がかっていて、仏教臭さが抜けきっていないじゃないですか(何しろ「三千世界」です)。それで私たちの使う「世界」のニュアンスと江戸時代の人のそれは少し違うのかも、と思ったんです。ところが、あにはからんや、

月みてもさらに悲しくなかりけり世界の人の秋と思へば
頭光
今宵この月は世界の美人にて素顔か雲の化粧だにせず
蓬莱山人帰橋
この里の石の文月浄瑠理の世界にひびく蜩のこゑ
四方赤良

見れば見るほど、あ、一緒だなって。一方「自由」という語も、今と同じ意味で使われているようす。

寄紙祝
君が代のあつき恵みとしら紙の一字もことば書かぬ自由さ
雄蜂

めでたきものを云うのに、帝の恩恵と、まだ何も書いていない紙の醸し出す気ままさとを並べた歌。確かに、白い紙の自由さは格別ですよね。

ほとゝぎす自由自在にきく里は酒屋へ三里豆腐やへ二里
頭光

この歌は、与謝野晶子が本歌取りしたことで知られますよね。

恋痩せし身に嬉しきは小窓より忍びて通う事の自由さ
百文

どれだけ痩せたんだか…。阿呆らしくて笑えます。「自由」のこんなフリーダムな使用例もあるんですね。

2018-12-10

梨のたわむれ 其の壱





こちらの記事はウェブマガジン「かもめの本棚」連載の「LETTERS古典と古楽をめぐる対話」第3回()にまとめました。

2018-12-08

土曜日の読書





新しい連載をはじめます。タイトルは「土曜日の読書」。どんな連載にするのか決まっておらず、1回目は様子見っぽい内容になったのですが、きのう良いアイデアを思いつきました。次回がたのしみ。
* * *

いま住んでいる地域はアルプ=マリティーム県といいます。「アルプ山地」と「海」の混成語なのですが、この名称は古代ローマの属州だったころからずっと変わっていません。

写真はニース空港を飛び立ってすぐ、アルプスの端のあたり。やっぱり雪、すごいです。道産子なのに、素直に驚いてしまいます。

2018-12-05

カチナ・ドール





先住民関係の棚に、ホピ族やズニ族が儀式でつかう人形「カチナ」を、ハサミもノリもなしでつくれる切り抜き絵本がありました。


12体作れるのですが、どれもほんものそっくり。下はHon(白熊)。すごい力の持ち主で、とりわけ病気を治すのが上手とのこと。


この絵本の作者ドミニク・エラールは建築と造形芸術を学び、そっちのジャンルを立体化した作品が多い人。実はみみずぶっくすのヘッダー()もドミニクの絵本。素敵な三羽の冬鴉です。

2018-12-02

幼児版『百兆の詩篇』





昨日の続きで、みみずぶっくすのこと。

逆に買った理由が一発でわかるものもあった。モルテザ・ザーヘディ『千の動物』(Morteza Zahedi "1000 zanimaux")がそれ。レーモン・クノー『百兆の詩篇』の幼児版みたいな大型絵本で、どういうことかというと、



と、こんなふうに造本が『百兆の詩篇』と一緒。対象年齢は3歳から5歳らしい(わたし、ちょうど良いんですが…)。3つの部位(頭、体、脚)に切断された10の動物(梟、猫、鶏...)を組み合わせると、右ページにオリジナルな造形の動物、左ページにシュールな文章がそれぞれ生まれる仕組みになっていて、左の上段には主語(動物の名前)、中段には動詞、下段には副詞句が印刷されている。


「ふくろうは」「のどを鳴らします」「夜の中で」。


「にわとりは」「吠えます」「睡蓮の上で」。

モルテザはイランの人。この絵本、パリのグラン・パレで見たカタログには〈イマージュと短いテクストとの絶妙な屍体〉と評されていた。ううむ、言い得て妙。

2018-12-01

お尻の本





今日はmimizu booksに品出しする本を20冊ほど選んだ(まだ一冊もアップしていない状態)。

一冊ずつ眺めていると、なにゆえこんな絵本が家にあるのかと不思議になるものも多い。『Livre de fesses』(お尻の本)もそう。対象年齢は2歳からとなっているのだが、




こんなのばかりじゃなく、え、そこってお尻だったの?といった写真がけっこうある。あと、毛のまま吊るされた兎のお尻、ひんむかれた豚のお尻、縛られた状態で焼かれた鶏のお尻なども平然と載っている。

極めつけは、人が裸で座ったあとの、お尻のかたちが割れ目までしっかり残っている革椅子の写真。エロティシズム全開。狙ってやってるとしか思えない。

確かに「お尻」という着想は2歳児的。とはいえこの絵本を幼児コーナーに並べて商売が成立するというのは、うーん、こういう時にこそ「お国柄」という言葉を使うべきなのかもしれない。


2018-11-30

水の文様



先の日記を書いた後に、また宮本武蔵について膨大な教養をもつと思しき別の方からメールを頂戴してしまい怯えています(テキトーですみません)。なにゆえこんなに武蔵は人気者なのでしょうか。

武蔵は全てがその中に入ってしまうくらい汎用性に富んだ言葉を使う人ですが、個人的な実感では、俳句は「人間が書く」のではなく「俳句が書く」のでは?と思ったりもします。つまり「ひらめき」が人間に属するものだとは考えない。この部分の説明がやっかいだなあと思案していたら、ちょうどよいツイートを発見。


本当に。全体は頂きもの、細部は人の技。仮に「ひらめき」が人の側にあるとすれば、その「ひらめき」とは「凄い何か」ではなく、きっと、ほんのちょっとした「抜道」の発見ってことなのでしょうね。
* * *
「暗香疎影」といえば田能村竹田。でも構図のポップさゆえに尾形光琳の「白梅図」との関係の方が広く知られています。この変、深入りすると面倒なので(考証合戦になる)さっさと本題にゆくと「白梅図」に描かれた浅瀬の流水文は馬遠「十二水図」中の「寒塘清浅」に通じているらしいです。


なまめかしい画。男女の逢瀬って、こんな怖い感じなんですね。ついでに書くと、北斎の描く波頭の様態も「十二水図」に見られる表現。


馬遠の人気というのは、もちろん画が良いからなのでしょうが、林逋の大ヒットフレーズを図像化したというのも少なからずあるはず。わたしは2羽の水鳥が不思議な「秋水回波」や「細浪漂々」がお気に入り。



2018-11-28

勝機はどこにあるか





ひさしぶりの「はがきハイク」が届く。
 
アリスったらまた伸びるのね冬館  笠井亞子
まつさらな銀河の縁の掛布団  西原天気

亞子さんはあいかわらずのおてんば。ちょっと川柳っぽい雰囲気を感じます。天気さんにはアンメルツヨコヨコという音から星雲を召喚した〈アンメルツヨコヨコ銀河から微風〉という名句がありますが、この度の「銀河」は愛の香りがうっすらと漂う点で、これを軽く上回るスペイシー度数です。
* * *
閑話休題。宮本武蔵のファンがいるようなので、ところどころ俳句と重ねつつ、もう少し書きます。

方法とか流派とかいったものは、その大枠の現象だけを眺めればどれも問題が多く、前衛でも、伝統でも、なんでも、それぞれにありがちな固有の弱点を抱えているものです。

にもかかわらず、どの方法論の中からも時々はっとするような作品が出現することを思うとき、作品の良し悪しを方法(流派)に遡行して語ることは実は不適切なのだということに気づきます。

どの方法(流派)も、その勝機は使い手のひらめきの中にあるのです。

だから方法(流派)を吟味するときは、その中で書かれたつまらない作品ではなくすばらしい作品を眺めること。批評であれば、或るすばらしい作品が、同じ方法(流派)の別の作品とどのように違うのかを考えること。また書き手であれば、方法(流派)と自分の性格とのフィット感を手さぐりすること。

そうすると、楽しく創造的な時間が過ごせます。いつだって、学びつつも一つの学びに染まらない精神は、作品を類ではなく個で眺める習慣から生まれるのです。

2018-11-26

「型」を受け入れるとき





きのう書いた「型にはオモテもウラもない」というのは宮本武蔵の言葉です(メールで質問されたので、こちらにも書いておきます)。ざっくり言うと、何かを学ぶときはその人の個性に合わせて知る順番も変わるのが当然で、こういった順番で学ばなきゃならないなんて作法はない、といった話。武蔵は「研鑽の先に奥義や秘伝があるわけじゃない。そもそも奥義や秘伝といった考え方自体が間違いなんだ」とも言っています。
* * *
閑話休題。「型」を受け入れるとき、自分をからっぽにするじゃないですか。あれが好き。

勇気を出して手に入れた、とても充実した空虚です。

その空虚な身体で、流れ込んでくるものを受け止める不思議さ。それに応えようとして芽生える言葉。力を抜いたまんま、ヴォルテージを上げたり下げたりせず、普段の表情、声、存在感そのままに、話すように詠ってみる。

そういえば今日ね、外を歩いていて、ふと空をみあげると、口をぱっくりあけて空が笑っていたんですよ。真っ青に。その笑いがすごくおおらかで、気持ちよく吸い込まれて、あ、力を抜くってこういう感じだったなと、久しぶりに思い出したんです。

2018-11-25

季語という「型」





空から写真が送られてきた。深い青。
* * *
「俳句」12月号に「夜空の星」という記事を寄稿しています。愛用している歳時記を教えてくださいという依頼だったのですけれど、歳時記を愛用したことがないのでそのように書きました。あと「愛用」って響きがちょっと。マテリアリストみたい。自分にとっての俳句とは、狂乱にせよ、はたまた遊戯にせよ、身一つの佇まいです。

ところで季語というのは現実に対応していない(現実との間にずれがある)体系ですが、じゃあ少しでもフィットするように改良すればいいかというと、話はそう単純ではなかったりします。なぜなら「型」とは人のためでなくむしろその逆、すなわちおのれの尺度を人に放棄させるために存在するからです。

芸事でも武術でもそうですが、季語についても一般的に言われる言説はオモテの顔にすぎず、ウラの顔としては主体を変容させるための装置として機能している(さらにその先へゆくと「型」にはオモテもウラもないといった超ややこしい話に至る)。そこが面白いんですよね。

2018-11-23

臍と弓、ふたつの君




組み句2つ、思い出したのでメモ。

秋風や汝の臍に何植ゑん   藤田哲史
秋風や白木の弓に弦(つる)張らん   向井去来

「臍」の若々しい渋好みと、「弦」をかすめる風雅の音。

やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君  与謝野晶子
人なしし胸の乳房をほむらにて焼くすみぞめの衣着よ君  『拾遺和歌集』哀傷

『拾遺和歌集』の歌は「あなたを育て上げた胸の乳房。その内側に燃えさかる炎でつくった炭染めの衣を着なさい、我が子よ」の意味で、「としのぶが流されける時、流さるる人は重服を着てまかると聞きて、母がもとより衣に結び付けてはべりける」と詞書が添えてある。「胸の乳房をほむらにて焼く」のくだりは「この手の比喩は悪くない」と藤原俊成が褒めていたような記憶(メモなのであいまい)。

2018-11-21

みみず・ぶっくすオープン。





ここ数日、あいかわらず「みみず・ぶっくす」用の絵本を整理していたのですが、来月あたまにきちんとした形でオープンするのは無理だと悟りました。

ものごとを折り目だだしく進めるというのが、なんにつけ苦手だったことを思い出したのです。

それでもう、準備とか、そういったことを考えるのはよして、適当に始めることにしました。こちら()です。

週1、2冊の品出しを目指していたものの、その気力は今のところなさそう。楽しく遊ぶのが目的なので、したい気分の時に、のんびり品出しします。

2018-11-18

ショッピングモールを歩いていたら



ショッピングモールを歩いていたら、夫が「フローズンヨーグルトが食べたい」と言うので、CHACUN SES GOÛTSという店に入ってみる。


ヨーグルトは脂肪分0%。週替りで4種類の味のヨーグルトが出る。完全セルフサービスで、カップにヨーグルトをソフトクリームみたいに巻き、


このカウンターでトッピングを好きなだけ盛って、最後にレジで重さに比例して料金を支払うシステムでした。


2018-11-17

みみず・ぶっくす、あるいは玩具展示室。





長い間、読書とは無縁でした。

今でも「読むためだけの本」は買いません。我が家は一部屋で、本棚も一竿だからです。

その一竿の空間には、海辺で石をひろってくる感覚で、眺めて楽しい本を並べています。好きな人から貰ったもの、紙のやぶれや糸のほつれを補強したもの、子どもがラクガキしたもの、図書館の蔵書印が押してあるものなど事訳はいろいろです。

ところで今年、我が家の蔵書が一竿を超えたのですが、整理する暇がなくてしばらく物置に入れてあったんです。で、この秋休みにそれらを見返していた折、突然《みみず・ぶっくす》に卸すことを思いつき、今日は本屋のヘッダーをつくりました。

オープンは来月あたまが目標。週2,3冊くらいずつ新しい本をアップして、手持ちの在庫がなくなったらおしまい。あとは道端に腰を下ろし、わたしの代わりにそれらを可愛がってくれる物好きな人が通りかかるのを待ちます。


2018-11-14

詩篇の起源






先日、心というものが炎や虹と同じ〈現象〉であると書いたところ、友だちから

うん、立ちあがるものだ
こころは
あれだ
le vent se lève, il faut tenter de vivre
の 立ちあがる感じかな

というメールが届いて、あ、確かに「風立ちぬ。いざ生きめやも」の「風」と「心」も同期していたなと思いました。

この句はポール・ヴァレリー「海辺の墓地」の最終連(第24節)に登場します。地中海を見下ろす丘陵の墓地に坐し、まばゆい海を眺めながら、万物の静止する午後のひとときを「死」の瞑想に費やしていたヴァレリーが、やがて日が暮れかけ、風が立ったその瞬間、はっと「死」を脱して「生」に立ち返るといったシーンです。

Le vent se lève! . . . il faut tenter de vivre !
L’air immense ouvre et referme mon livre,
La vague en poudre ose jaillir des rocs !
Envolez-vous, pages tout éblouies !
Rompez, vagues! Rompez d’eaux réjouies
Ce toit tranquille où picoraient des focs !

風が立つ!. . . 生きなければ!
とめどない気流が私の本を開いてはまた閉じ
波はしぶきとなって猛然と岩にほとばしる!
舞え、まばゆい頁よ!
砕け、波よ! 砕け、心躍る水で
三角の帆がついばむその静かな屋根を!
(ヴァレリー「海辺の墓地」)

L’air immenseがたいへん稀な表現で訳しにくいですが、ピエール・ベール『歴史批評辞典』に「万物は広大無辺の空気(L’air immense & infini)から生まれ、常に動いている。この空気こそが全原理をつかさどる神である」というアナクシメネスの言葉があり、また神学的な歴史観においても度々この言い回しが出てくるので、この詩篇のL’air immenseも世界の極まるところのない様態を表しているのだと思われます。

で、ここから本題。ヴァレリーの有名な言葉に「詩は舞踏であり、散文は歩行である」というのがありますが、この詩篇も、もともと内容面の着想があったわけじゃなく、或る純粋なリズムのー形式(つまり目的のない運動それ自体)を思いついたことがきっかけで書き始めたそうなんです。そして書いては消し、書いては消しを繰り返しているうちに、作品の意図が己れの知らない何処かから出現したのですって  ざっと、5年かかって。

2018-11-13

カモメ・インフォメーション



東京新聞文化欄「私の本の話」に『カモメの日の読書 漢詩と暮らす』にまつわるエッセイを寄稿しました。『フラワーズ・カンフー』の時はこの手の依頼はすべてお断りした(俳句の話って喋りづらい)のですが、今回は他の詩人たちを紹介する本ということで気楽に書いた次第です。

俳句誌『オルガン』15号に対談「翻訳と制約 〈漢詩〉の型とその可能性を旅する」が掲載されています。「漢詩って、つまりなんなの?」といった話を、「ページ数からしてこれ以上は無理」というくらいの山盛り&駆け足(※自分比)で編集者の北野太一さんと語りました。お問い合わせはメールorgan.haiku@gmail.comまで。記事の小見出しは以下のとおり。

「海外文学としての漢詩」/訓読はインスタント翻訳/漢詩は文語自由詩である/詩を選ぶ/視覚へのこだわり/省略と読み/星雲的な余韻/「ひるね」の視線/一日、一篇ずつ/きっかけ/エッセイにとどまること、ぶつぶつと/連句的な発想/欧文訓読と近代日本語の成立/怒られる?/演奏としての翻訳/本を読まない人生/不安定な定型/プレイヤーとして直感する/こんど

『週刊俳句』第603号に、表紙写真と短文()を寄せています。写っているのは、ここ数年仲良くしている近所の子です。

2018-11-10

夢の縫い目より






さっき岡田一実『記憶における沼とその他の在処』をどう読むかについて考えていて、ふと《夢の縫い目》という言葉を思いついた。

この《夢》は《無意識》と言い換えてもいい。

人は縫い目のない夢を見るが、言葉にされた夢には縫い目がある。岡田さんの句は助詞が縫い目になっているとみた。そこをほどくと、面白いことになりそうだ。



ここで翻って自分はどうかと内省すると、名詞をアップリケのように使っていることが多いような気がする。アップリケを外すと、その下から、擦り切れて、穴のあいた、よく知っている何かがあらわれるのではないか、と。

それにしてもアップリケとは。あまりに垢抜けない。本当は天衣無縫な作品を書きたいのに。でも当然のことながらダ=ヴィンチやブランクーシのようにはいかないのである。

天衣無縫に憧れる理由は、それが反権力のひとつのあり方だからだ。ものを書くとき、人が対峙することになる最大の権力とは、言葉それ自体の力能にほかならない。だから言葉をつかうときは、それが権力への意志という俗情に寄りかかっていないか激しく吟味する必要がある。

言葉によって虚栄を縫い重ねず、恐怖を覆い隠さず、綻びをつくろいもせず、言うべきことさえすっかり忘れて、ただ大空を鳥が舞った跡のような言葉の刺繍を生み出すことができたら。無論これは不可能であるがゆえに  書き手は言葉のもつ権力性から決して逃れられない  イデア足りうるような願いだ。

2018-11-09

虹の一族





心というものを「存在する」とか「存在しない」とかいった議論があるけれど、昔、こんな感じの文章(出典失念)を読んだことがある。

蝋燭は物体であり、炎は現象である。ちょうどそれと同じように、人間は物体であり、心は現象である。

まぎれもなく心は「存在する」。ただそれは、物体のような在り方で把持されるのではなく、むしろ炎や霧や虹の仲間だということ。

つまり、わたしが考え、また感じるとき、わたしとは虹のように存在するのである。

亡き妻の全身重し虹のなか   渡辺松男

2018-11-07

死に至る記念碑





秋の連休は、絵本の整理をした。

整理の最中、あたらめて感じ入ったのが、絵本におけるジャック・プレヴェール使用率の高さ。たしかにプレヴェールって絵が描きやすそうだ。ポール・エリュアール、フランシス・ポンジュあたりも絵筆が伸びるのではないかしら。

孤独、あきらかにかたつむりは孤独だ。あまり友達がいない。だが、幸福であるために友達を必要とするのではない。彼は実にうまく自然に密着している。密着して、完全に自然を楽しんでいる。かたつむりは、全身で大地に接吻する大地の友だ、葉の友だ、敏感な眼玉をして昂然と頭をもたげる、あの空の友なのだ。高貴、鷹揚、賢明、自尊、自負、高潔。

(……)だが、おそらく、彼らは自己表現の必要を感じていないだろう。彼らは芸術家、つまり、芸術作品の制作者であるというより、  むしろ、主人公であり、いわばその存在自体が芸術作品である存在なのだ。

しかし、ここに、私が述べるかたつむりの教訓の主要な点の一つがある。それは彼らに特有なものではなくて、貝殻をもった生物がすべて共通してもっている教訓なのだ。彼らの存在の一部分であるこの貝殻は、芸術作品であると同時に記念碑なのだ。そして、それは彼らよりずっと永く残るのだ。
– フランシス・ポンジュ「かたつむり」

「牡蠣」「軟体動物」「かたつむり」「貝に関するノート」「海辺」  ポンジュの詩はモチーフも、世界との距離感も、とてもいい。

貝殻をもつ生き物たちは、指の先から乳色の汁を出しながら、死へ向けて貝殻を作り続ける。貝殻をもたないわたしたちも、自分たちなりのやり方で〈死に至る記念碑〉を少しずつ巻き上げている  人生というスパイラルを。

2018-11-05

枕詞使用法(2)





小池さんの歌のように、枕詞と被枕詞との接合に工夫や創造があるものを狂歌本からいくつか拾ってみます。

みよしのゝ山もり雑煮春来ぬと湯気も霞みて芋はみゆらん
玉くしけ二きれ三きれおやわんの雑煮に腹の春は来にけり

酒上不埒『狂歌猿の腰掛』『栗花集』より。酒上不埒は恋川春町の狂歌名です。それから、枕詞を新調するという手もありますよね。

かまぼこのいたく思へは夜は猶日にいくたびか身も焦がれつゝ

作者名は失念しました。時間ができたら調べてみます。あと口調が可愛いこんな狂歌。

久かたのあまのじやくではあらね共さしてよさしてよ秋の夜の月

半井卜養『卜養狂歌集』より。この人はさらりとした歌が多いです。また「ひさかたの」といえば、

久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも

の正岡子規も。子規って俳句より短歌の方がうまいと思うんですが、業界ではどう言われているのでしょう。〈打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて又落ち来る人の手の中に〉〈今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸の打ち騒ぐかな〉とか、彼のベースボール短歌はみずみずしくて素敵です。最後に江田浩司『まくらことばうた』から一首。

こもりぬのそこの心に虹たちてあふれゆきたり夢の青馬  江田浩司

2018-11-02

枕詞使用法(1)





談林俳諧には枕詞の変則的技法が少なくないようですが、私が枕詞の粋を最初に理解したのは、

あかねさす翳とひかりのささめごと誰かあなたと流れゆく星   小池純代

という一首でした。「あかねさす」と「ひかり」との間をくっつけない、その一息分の隔たりに、なるほど、風韻とはこうやって醸すのだなあ、と思ったものです。

小池さんには、勤め人の日常風景を枕詞で綴った連作「鹽の人人」というのもあって、こちらは文字通り談林的な枕詞遊びになっています。

ともしびの明石櫻子ひとひらが地に着くまでの眸(まみ)のうつろひ
沖つ鳥「賀茂鶴」の壜傾(かたぶ)けてとふとふとふと鳴く口あはれ
御民(みたみ)われ生ける證(しるし)よ荒玉のタイムカードに載せる日月(じつげつ)
種種(くさぐさ)の業務繁りて疊(たた)なづく靑山通りビジネスビルぞ

2018-10-31

月洞軒の狂歌





雨上がりの今日は、波の高い日でした。カモメもいっぱいいて、しばらく眺めていたら、

からかさのさしてはぬれぬものながらひたすら雨の音羽町かな   黒田月洞軒

という狂歌を思い出しました。わたし、小さな地名が読み込まれた歌が好きで、以前もこんな趣向の作品()に触れたことがあるんですが、この「音羽町」という地名、カモメを添えて一句つくるのに良さそうだなってふと閃いたんです。

それからこの狂歌、土佐の山内容堂の漢詩も想起させます。

墨水竹枝  山内容堂

水樓宴罷燭光微  一隊紅妝帯醉歸
繊手煩張蛇眼傘  二州橋畔雨霏霏

隅田川の歌  山内容堂

みづのやかたの宴は果て
燭のあかりもあとわづか
綺麗どころがぞろそろと
ほろ酔ひがほで帰りだす
ほつそりとしたその指に
ひらきあぐねる蛇の目傘
両国橋のたもとには
しとどに雨のふりしきる

タイトルの「竹枝」は詩形の一つ。情を盛り込んだ素朴な歌謡が多い詩形らしいです。「紅妝」は柳橋の芸者で、「二州橋」は両国橋のこと。蛇眼傘(じゃがんさん)という造語については木下彪が『明治詩話』の中で、「蛇の目傘を漢語風に詠みこむなんて凡手には思いつかない。しかも雅馴にして自然で、ほんとうまいね!」とべた褒めしています。

話を戻して月洞軒ですが、この人は「けれどもけれどもさうぢやけれども」の鯛屋貞柳()の兄弟子なのだそうです。

むしやくしやとしげれる庭の夏草の草の庵もよしや借宅
酒のみのひたいに夏を残しつつ秋とも見えぬ此此(このごろ)の空
いや我はあづまのゑびす歌口もひげもむさむさむさし野の月
あさ夕はどこやら風もひやひやとお月さま見て秋をしりました

引用はこちら()から。狂歌というのは即興詠が多く、また歌謡からの借用が少なくないのですが、なかでも月洞軒はそれが顕著だったようす。3首目、巧みな導入部のリズムのおかげで、後半の言葉遊びが生き生きとしています。

2018-10-30

伯父の遺産





以前、ロンドンの法律事務所から、こんな手紙を受け取った。

「拝啓 あなたの遠縁の伯父さんが、東南アジアで事故死しました。彼には三億の遺産があったのですが、私共の法律事務所で念入りに調査した結果、あなたがその相続人に指定されていることが判明しました。もし、私共の事務所にこの遺産相続の処理を一任していただけましたら、つきましては、あなたに遺産の半分を差し上げます。ご多用の折恐れ入りますが、ご連絡お待ちしております。敬具」

つまり、詐欺ビジネスを一緒にやりませんか、とのお誘いである。なかなか大胆だ。

それにしても、この自称法律事務所は、どうやって私の住所を知ったのだろうか。

東南アジアで亡くなったという男性は、本当に事故死なのだろうか。

この詐欺の片棒を担いだら、次に殺されるのは秘密を知っている私になるのだろうか。

いろいろ思い巡らすうちに、心臓がどきどきして、近所を歩くのが、しばらく怖くなってしまった。

そういえば、詐欺師とのやりとりで、日本では多いらしい勧告・懇願系のトリックを体験したことが一度もない。来るのはいつも「おめでとうございます! 今当社で開催中のキャンペーンで、あなたに一万ユーロが当たりました。早速ですが、換金手数料をこちらの口座にお振込みください、うんぬん」といった、この上なく祝祭的な工作ばかりである。

ロンドンの法律事務所からの手紙は、親切にもフランス語で書かれていたのだけれど、ところどころ文法が怪しい上に、知らない国の消印が押してあった。こういうのは、おおらか、といっていいのかどうか。

2018-10-28

月に吃る





「吃り」というものを舞踏的に捉え直せば、世界との共振(レゾナンス)と見立てることができるでしょう。たとえば、下のような吃音歌は、光の当たる角度が変わると、どれも「命がけで突っ立った死体」(土方巽)のようではありませんか。

夢にのみききききききとききききとききききききと抱くとぞ見し
ー『古今和歌六帖・巻四』 歌番2174

も、も、ももを
も、もいでもらふ
も、もちろん も、問題ない
も、も、桃だもの
ー小池純代『雅族』

叱つ叱つしゅつしゅつしゆわはらむまでしゆわはろむ失語の人よしゅわひるなゆめ
ー岡井隆『神の仕事場』


人間の発音行為が全身によってなされずに、観念の喙(くちばし)によってひょいとなされるようになってからは、音楽も詩も、みなつまらぬものになっちゃった。音楽も詩も、そんなに仰山ありがたいものではない。/くしゃみとあくび、しゃっくりや嗤うことといったいどこがちがうのだろう?もし異なるとしたら、それはいくらかでも精神に関するということだけだろう。(武満徹「吃音宣言」)

2018-10-25

秋の散歩



Cardiff映画祭の帰りしな、英国から上野葉月さんがやってくる。

同居人と三人で晩ごはんを食べる。福島拓也監督『モダンラブ』()は審査員特別賞だったとのことで、授賞式や晩餐会のこと、次回作のシナリオ、葉月さんがお住まいだったころのコート・ダジュールの話などを聞く。

翌日は葉月さんのリクエストで、夕方から大学構内を散歩。


実りまくるナツメヤシ。下の写真はおまけで、Cardiff映画祭の会場に向かう葉月さんたちです。

たこぶね(Argonaut)とおうむ貝(Nautilus)



こんなツイートを見たので、手元のたこぶね情報を整理してみました。


英語のwikiには「nautilusという単語はギリシア語のναυτίλοςから派生し、もともとタコであるArgonauta属のpaper nautilusesを指していた」とあります。1758年のリンネの本ではArgonautとNautilusとが別々に認識されていますが、依然としてargonautは(paper)nautilusと呼ばれることが多かったようです。こちら()に「ノーチラス号」にかんする面白い考察も。

日本において、たこぶねは古い書物にほとんど登場することなく、1712年の『和漢三才図会』に「思うに、津軽のタコである」と書かれてしまうほど珍しかった。もちろんこれは当時の博物学的水準において珍しいという意味で、リンネの弟子ツュンベリーの『江戸参府随行記』には1776年の江戸で越後のたこぶねをもらった(190頁)と記されていますし、シーボルトの『江戸参府紀行』にも1826年の長崎で見たたこぶねの話とその名の由来(125頁)が出てくるので、日本人が折々にたこぶねとつきあってきたのはたしかです。

下は豊富な図画が嬉しい名越左源太『南島雑話』のたこぶね(章魚舟)。東洋文庫で読めるのですけれど(たこぶね図は2巻の44頁)、図画はすべて白黒。奄美市立奄美博物館のサイト()だと天然色の写本が見られて感動します。


付記2点。東洋文庫『南島雑話』の校注では、たこぶねのことをわざわざ「オオムガイ」としてあり、他の注釈も少し不安。あと厳密な話をすれば、英語ではアオイガイ科のタコを総称してArgonautといい、リンネやツュンベリーの本に登場するのはたこぶね=フネダコ(Argonauta hians)ではなくアオイ貝=カイダコ(Argonauta argo)になります。アリストテレスが眺めていたのもアオイ貝=カイダコです。でもカイダコとフネダコは、区別する必要があるの?ってくらい一緒。この辺、より正確なことを知るには、専門書を読まないといけない雰囲気です。

2018-10-23

ペーパー・ノーチラス





週刊俳句第600号に「日曜のカンフー□□いつかたこぶねになる日」を寄稿しました()。日曜日にもカンフーにも無関係のエッセイです。上のたこぶねは、とても好きな一枚。

* * *
で、たこぶねですが、江戸時代の百科事典『和漢三才図会』に、絵入りでこんな記述がありました。

その螺の大きなものは七、八寸、小さなもので二、三寸。形は鸚鵡螺の輩(なかま)に似ていて、ほぼ秋海棠の葉のような文理(すじめもよう)がある。愛らしいものである。両手を殻の肩に出し、両足を殻の外に出し、櫂竿の象(かたち)をして遊行している。(寺島良安『和漢三才図会』)

なんてかわいらしい。椅子に腰掛けて、長い膝下で漕ぐイメージだったのですね。それから、たこぶねの貝殻は薄いため、英語ではペーパー・ノーチラス(Nautilusはオウム貝のこと)とも呼ばれるみたい。すぐさま一首詠みたくなる響きです。

この貝の名前(Argonauta)は黄金の羊毛を探しに行ったイアソンの船から取ったもので、船乗りにとってこの貝は晴天と順風の印になっている(…)たこぶねの話になると、我々は普通の意味での貝の蒐集から離れることを認めなければならない。日の出貝とか、牡蠣とかならば、大概のものは知っている(…)しかしこのたこぶねという珍しい貝では、我々は既に試験ずみの事実や経験を離れて、想像力の世界に向けて船出することになる。(リンドバーグ『海からの贈物』)

帆なきまま進むペーパー・ノーチラス号わうごんの羊を求(と)めて
小津夜景

© Veronidae, wikipedia