2017-09-28

あやとりドリーミング


© Robyn McKenzie via Australian Museum

本日のスピカ「かたちと暮らす」の画像は、イルカラのLipaki Djulapanaのつくったあやとり「海鷲の巣」をエッチングにしたもの。なお上は「蝶」。

オーストラリアのイルカラにはアボリジニの「あやとり発祥の地」があります(こちらの本に載ってました)。アボリジニのあやとりは口承と一体化したものが多く、あやとりによるドリーミングは、彼らの生きる時間と空間とを横断的に拡大しつつ結びつける役割を果たしているそうですよ。

それから、これはどうも行き詰まったような雰囲気なのですが「いまだ解読されていないイースター島の文字『ロンゴロンゴ』をあやとりの意味から読み解いてみよう」といった研究が以前あったみたいです。うーん、すごく解読できそう。だって、ロンゴロンゴって、どの字も結んだ環みたいなかたちですもの。怖いくらい。

2017-09-27

風、すなわち鳥。



現在連載中のスピカ「かたちと暮らす」で、25歳まで陥っていたひどい勘違いについて告白したのですが()、それと同様の話で、わたしはみすず書房のシリーズ本「みすず・ぶっくす」のことも40歳頃まで「みみず・ぶっくす」と勘違いしていたんですね。みすず書房って実はキュートなんだね、なんて思いながら。

こう書きつつ、視覚文化研究所の「みみずくアートシリーズ」も本当に「みみずくアートシリーズ」で合っているのか不安になり、いまググってみましたら、こちらは合っていたもよう。よかった。

本日のスピカは虚の鳥について。虚の鳥といえば殷の時代、鳳凰の「鳳」という字は「風」と同義でした。火の鳥というのは殷から約千年後、五行思想の流行によって生じた見立てで、そもそも鳳凰は「風をおこす霊鳥」だったそうです。

天地に風をもたらす神。この上なく壮大なスケールが心地良い。太古の人は、心からシンプルに、鳥を寿いでいたのですね。

2017-09-26

なにもない道路


本日のスピカはマイロウィッツの話。そんな日にスマホの写真をブログに載せるのもどうかなと思いつつ、きのう外に出たら道路が『異邦人』っぽかったので、すみません、載せちゃいます。

なにもない理由は、ここがトライアスロンのコースになっていたから。

2017-09-24

知らない島、知らない鳥。



南の島から知らないカモメの写真が送られてくる。羽根が美しい。この種は何という名前なのだろう? 

「きれいな海。この辺、大きなサメも多いでしょう?」

わたしがそう訊ねると現地で暮らす知人は、

「普通にシュノーケリング中に遭遇してもほぼ無視されますよ。目がほとんど見えなくて、漁などで血のにおいをさせない限りは襲ってこない種が多いんです。眠りザメ(requin dormeur)という名前のサメもいるくらいで」

と笑う。そして「むしろコバンザメの方が厄介ですね。フリーのコバンザメは宿主を探して追いかけて来るから」と付け加えた。それはたしかに嫌だ。

海の遊びだけでなく、椰子の下の読書も捗りそうな島。本日のスピカ「かたちと暮らす」はこちら

2017-09-23

うわの空っぽく、の愉しみ。



そういえば、9月1日は平生よりお世話になっているソノリテさんの記念日でした。愛知県常滑市より茨城県龍ケ崎市に居を移して丸4年経ったそう。

家具・木器・暮らし周りの道具・文具、そして少しの書籍を扱っているソノリテさんにご連絡さし上げてみたのは、クルミド出版の本や文鳥文庫を仕入れていらしたから。それがなかったら、きっとほわわんと眺めていただけでしょうから、縁というのは不思議です。

店内は写真を眺めるかぎり扱っているモノも多くないし、変わった感じもしない。とてものんびりと、気のむくままの雰囲気で、つくし文具店オリジナルの封筒とか、ダルマ家庭糸とか、この糸をつくっている横田株式会社企画のうれしい手縫いとか、家にあると便利そうなものが、どこかうわの空っぽく並んでいるところがツボなのでした。

昨日と今日のスピカ「かたちと暮らす」はこちらこちらです。

2017-09-21

屋根を愛する男性



本日のスピカの実験動画について、じっさいに屋根を試作しているときはどんな感じかな?と思いつつ本をめくってみましたら、上の写真がありました。どことなくレンブラントの「テュルプ博士の解剖学講義」っぽいです。写真一枚とるのに、ここまで構図をキメちゃうのもすごい。

ひとつお知らせ。『静かな場所』No.19に連作「虹の音字機」15句および田中裕明の句にまつわるとてもとても短いエッセイを寄稿しています。特にエッセイでは、わたしの中の裕明が、静謐な音楽性、軽妙な論理性、そして夭折の三つをもって有元利夫のイメージと重なっている話を書きました。いま手元に数部ありますゆえ、眺めてみたいなという方はメールください(発行人の対中いずみさんの手元にも少し残部があるそうです)。

2017-09-20

膨らむ物体



膨らむ建築やオブジェ系でさいきん良かったのがSpatial EffectのGalleryのページ。Waterの部門に長年の謎の答えがありました。

それはなにかというと、ウォーターボールに入って水辺で遊んでいる人を見るたび、あれ、いつからあるんだろう?と思っていたんです。ウィキにはこう書いてあるのですが、そんなはずないだろうと。それが、このサイトにある1969年のWaterwalkが最初だったとわかって、しかも三角錐の風船で、うーんかっこいいなあ、と。

本日のスピカ「かたちと暮らす」はこちら

2017-09-19

アーティストの部屋



あの、フランシス・ベーコンの仕事場を撮った有名な写真集があるじゃないですか。あれを見てからというもの、やっぱりデキる人はこうゆう渾沌たる空間に棲んでいるんだよなって思っていたんです(あそこまでゴミ屋敷じゃなくてもいいですが)。

それがある時、ベーコンの仕事場ではなく住居の方を撮影したパネル展を見にゆくことになり、いったいどれくらい迫力ある空間に住んでいるのだろう?とドキドキして会場に入りましたら、たいへん整理整頓の行き届いた住まいだったので二度仰天しました。ドレスシャツもすべてクリーニングに出してきれいに積み上げてあるし、リビングも社交的な家具の配置だし、キッチンも使いやすそうで「ここ、ドナルド・ジャッドの家だよ」と言われても信じてしまいそう。こちらに一枚だけキッチンの写真があります。いたって平凡ですよね。

ところで、わたし、ベーコンが超好きで。50年代以降の、背景の単純明快な作品が特に。モダンの中にひそむクラシシズムにぐっときます。

本日のスピカ「かたちと暮らす」はこちら

2017-09-18

絵と画のこと



本日のスピカ「かたちと暮らす」は抽象絵画のこと。

そういえば、絵画という単語は「絵」および「画」の字から成りますが、数年前「出アバラヤ記」という連作を書くために、中国の〈天地人の三位一体論〉と〈水墨〉との関係について考えていた時、昔は「画」が基本墨一色で「絵」が多彩色を含意していたという話を読んだことがあります。わかりやすい例としては、山水画は一色/大和絵は多色、版画は一色/浮世絵は多色、画師は水墨/絵師は色絵、といった感じ。また墨絵や淡彩画などの言い回しは、歴史の浅い和製漢語なのだそうです。

あ。週刊俳句の小津が大粒の涙をのんで流されるシリーズ第三回は、関悦史『花咲く機械状独身者たちの活造り』についてです。

2017-09-17

おしゃれで、フェアな。



本日のスピカ「かたちと暮らす」で言及したフランソワ・チェンは、東アジア関係の本に序文を寄せていることがよくありまして、ラファエル・ペトルッチ『極東美術における自然哲学』(1911年)の復刻版もそうでした。

この本、言及されている日本人絵師・画師が恵心僧都、広重、北斎、空海、光悦、応挙、雪舟、司馬江漢、狩野探幽、松花堂昭乗、大西酔月、相阿弥、野村宗達、鳥羽僧正、宮本二天(武蔵)などなどシブい。上は土佐派の伊勢物語ですが、中国絵画の方の図版のセレクトも良いです。フェノロサの仏教美術偏重を問題視したりもしてますし、ほんとペトルッチはおしゃれでフェアな美術史家だなと思います。

初版本はフランス国立図書館のサイトでダウンロードすることができるみたいです。

きのうのスピカ「かたちと暮らす」はこちら

2017-09-15

切手と金魚



本日のスピカで触れたジョセフ・アルバース、ウィキに切手の画像がありました。質感は全く感じられないけど、でも、眺めてしまいます。

切手といえば、この夏、スカイツリーにある郵政博物館へ行ったんです。圧巻だったのは切手のコレクション。スライド式の展示ガラスを引き出すと、国名&年代ごとに分かれた切手を鑑賞できるしくみになっていて、収蔵枚数は33万枚とのこと。ミュージアム・ショップも、珍しい切手がノーマルな値段で手に入って便利。ファーストデイカバー(切手と封筒と初日消印が一体になった郵趣用記念グッズ)は随時3万枚を超えるそうです。あとはですね、切手と関係ないけれど、下の階の墨田水族館の和金も良かった。俳句愛好家にはちょうどよい散策コースかも。

告知。9月13日付朝日新聞夕刊に「俳人・小津夜景さん 俳句は回路、外の世界と自分をつなぐ」が掲載されています。わたしも冒頭部分をちらっと読みました。なるほど、回路だったんだ、ふむふむ、とか思いながら。

2017-09-14

木彫りを追って



本日のスピカ「かたちと暮らす」は木彫りの熊の話。それで思い出したのは、昔、同居人と結婚しましたときに、知床半島から網走に抜ける新婚旅行に出かけたこと。

わたしは北海道生まれで、子供時代はわりと引越しが多かったのですけれど、どういうわけかいつもアイヌ文化圏の土地ばかりで、ニブフ族(ギリヤーク族)やウィルタ族については書かれたもの以外なにも知らなかったんです。それで良い機会だからということで、オホーツクの旅に出たのでした。

アイヌ文化圏の住人にとって、ニブフの木彫りはとてもキュートで少しさみしい。またセワポロロのような観光用の人形にすら「ここには別の文化をもった人が住んでいたんだ」と感じたりもします。当時はダーヒェンニェニ・ゲンダーヌ氏が始めたウィルタ文化資料館「ジャッカ・ドフニ」もまだやっていまして、わたしたち夫婦は、とりあえず網走刑務所を押さえたのち、北方民族関係の施設をいくつか回ったのでした。

余談。わたし、梅棹忠夫の書くものって好きじゃないんですが、1993年の国際先住民年のとき、アイヌ文化の企画を北海道以外の博物館でやってのけたのが彼のいた民博だけだったことは、本当に偉いなと思います。当時はまだ旧土人保護法(!)があったから、なおさら。

シロカニペ待ちかね宝船にのる  小津夜景

2017-09-13

あやとりと浮遊癖。



以前、あやとりのサイトを見ていたときに知ったのですが、あやとりという語が使われている最古の文献というのは江戸初期の俳句なんです。

風の手の糸とりとなる柳かな  俊安

寛文五年(1665年)に刊行された、野々口立圃の俳諧集『小町躍』に見られる一句。あやとりが日本古来の遊びであるといった通説の出所は小高吉三郎『日本の遊戯』(1943年)の「あやとり」の項で、そこには「これといふ考證もないが、恐らく平安朝時代から行はれてゐたものではないかと考えられる」と書かれています(≫参照)。けれどもこれは柳田崇拝が遠因となった思いつきで、大昔に日本人があやとりをしていた文字や画像資料は見つかっていないんですって。

そうそう。あやとりって、ついつい糸に目が行きがちですけれど、手のうごきの浮遊感もいいんですよね。ついさっきも、エアーあやとりをしてみたら、ものすごく気持ちよかった。

本日の「かたちと暮らす」はこちら

2017-09-12

微音空間



今日は2枚のカードを眺めました。

一枚は熱帯で働く友だちから届いた鳥の写真。そしてもう一枚は、きのうのブログを読んだという方からのグリーティング・カード。カードの絵柄は1990年冬のNHKFMシアターで言及された、有元利夫のタブローです。すごいですね。17年も前にたった一度流れたきりの番組なのに、どうして絵のタイトルがわかったんでしょう?

そのドラマのシナリオは、今にして思えばとても平凡なものでした。でも高校生の耳には充分すぎる鉱脈があった。ニュートリノやカミオカンデの話、路上のゴミをあつめる趣味のこと、犬の足跡に石工を流し込むアート、有元利夫のタブロー。そして中尾幸世の声。

中尾幸世が今なにをしているのか気になって少ししらべてみましたら「微音空間」というファンの方のサイトを発見。微音空間かあ。たいへん言い得て妙なネーミングです。

本日の「かたちと暮らす」はこちら

2017-09-11

天の記憶



本日のスピカ「かたちと暮らす」で言及した映画《La vita è bella》はアレッツォが舞台。この町のサン・フランチェスコ教会にはピエロ・デラ・フランチェスカのフレスコ画「聖十字架伝説」が保存されています。

自分がピエロ・デラ・フランチェスカを意識したのは1990年の冬。部屋で勉強しながらNHKFMシアターを聞いていましたら有元利夫の話が出てきまして、それが気になって本屋で画集を購入し、そこから初期ルネサンスに行ったという流れでした。

ところでこの二人、どちらも色彩と質感が素敵ですが、似ているようで全然似てないところが面白いですよね。ピエロ・デラ・フランチェスカの絵は平明で大胆な形態把握、緻密な構図と細部の描き入れ、クール&ビターな人間の表情などが観る者に甘美な幻想をもたらす一方、有元の絵はあいまい、省略、スイートなどがその特徴。和やかな音楽に満ちていて、壮麗な静謐さからも割と遠いですし。

木の板のうすくひびくは鳥雲に  小津夜景
(「そらなる庭に ピエロ・デラ・フランチェスカによせて」)

2017-09-10

武術と奇術


小津が大粒の涙をのんで流されるシリーズ第二回が週刊俳句にアップされています。今回の話題は竹岡一郎『ふるさとのはつこひ』について。

潰(く)えし半身虹もて補完せり吶喊(とつかん)  竹岡一郎

音声中、わたしが何度も口にする「舞」という語は伏せ字です。実際には、目の前で竹岡さんが演武してくれていた武術の技の名前が入ります。竹岡さんの流派が比較的めずらしいものなので公言を控えました。唯一、竹岡さん自身が「てんしけい」と言っているのは陳式太極拳の「纏絲勁」のこと。その他「中村汀女のことばの動きは八卦掌」といった点でも両者の意見が一致していたことがわかり、とても新鮮な一日でした。

ところで、上の句と似たリズムをもち、かつ竹岡さんが好きだと語る、


西日暮里から稲妻みえている健康  田島健一

については、武術ではなく曲芸や奇術のテンポを感じます。竹岡さんの方は腰の高さが一定し、動き出しの息を最後まで温存しつつ引っぱっている一方、田島さんの句はジャグリングのように腰が大きくゆれている。

また奇術というのは、合理的な原理を用いてあたかも〈実現不可能なこと〉が起きているかのように見せかける芸能(@wiki)ですが、田島句の語の構成、とりわけ座五のからくりには、俳句原理の中に〈合理的不可能〉を探求する姿勢が感じられます。そしてわたしは、この姿勢のひとつの到達点が「悪の名詞化この世まばゆいチューリップ」であるとも感じているのでした。

本日の「かたちと暮らす」はこちら

2017-09-09

仮象としての影、仮想としての光。



影を眺めるというのは、人間にとって、とても不思議な娯楽です。面影という語に代表されるように、影は無というよりも存在のヴァリエーションとして認知されていますし、表象の概念の根本をささえる考え方でもあります。

影が〈仮象の世界〉だとすれば、いっぽうの光は〈仮想の世界〉。光の中で存在に出会うと、それがまぼろしじゃないと知っていても、そうとしか思えなかったり。ううん、存在どころか、この世界すべてがまぼろしだと言われたみたいで悲しくなる。光って、本当に無慈悲です。


たれもかれも幻を視るまぼろしぞ 眩し まぼろしなればほろびず  小池純代

上の歌の「視」は示に見。本日の「かたちと暮らす」はこちら

2017-09-08

光の中の黒い鳥



本日掲載のスピカ月間日記「かたちと暮らす」の写真はブルーノ・ムナーリの『ABC BOOK』。子供がアルファベットを覚えるための絵本です。黒い鳥のかたわらにCrowと書いてあるので、あれはカラスということになります。

でもあの絵、目と嘴の感じや尾からして、カラスじゃなくてクロウタドリ(黒歌鳥)ですよね。上の写真の子。クロウタドリは英語でBlackbirdと言いますので、カラスってことにしておこう、とムナーリは気楽に思ったのでしょう。

クロウタドリはヨーロッパ人にとって親しみある鳥で、ムナーリは《IL MERLO HA PERSO IL BECCO》(クロウタドリはくちばしをなくしたよ)というグラフィック絵本もつくっています。全部の頁をめくりおえたあとに残る小さな心臓がチャーミングです。

2017-09-07

ここにコップがあると思え


哲学系アイテムとしてのコップは、シンプルな、匿名性の高いものだと嬉しい。

近現代の哲学にコップの比喩が多いのは、西洋におけるカフェ文化と議論との強い結びつきに由来する(たしか、そうだったはず。違ったら、ごめんなさい)。カフェは市民がさまざまな刊行物を読んだり、この世界の在り方について意見を交したりする場所。で、そのとき彼らの思考実験の道具として頻繁に引き合いに出されたのが、目の前にあるコップだった。


夏暁のここにコップがあると思へ  岡野泰輔

このコップにもまた実存主義的な芳香が漂っている。夏暁の瑞々しさによって命の誕生の気配を演出しつつ、モノが存在することの奇蹟を哲学的言説と絡めあう手つきはとても鮮やか。

掲句が収録されている『なめらかな世界の肉』というメルロ=ポンティ由来の書名も、岡野さんによく似合っていて、チャーミング。

本日の「かたちと暮らす」はこちら

2017-09-06

空には実体がない



かすかに乳色がかった空。なんど眺めても、空そのものに匂いも手ざわりもないのがふしぎ。

きのう、匂いのある本、というのを思いついた。なにもない空を眺めつつ手元の本をひらく。文字を読んでは、ときどき香りをたしかめる。じぶんじしんを嗅覚にゆだねるのは楽しいあそびだ。

本日の「かたちと暮らす」はこちら

2017-09-05

夏の思い出。


あの、南仏に引っ越して来て、コルビュジェのカバノンを見にいったんです。すると収納付きベットの上に、ロールケーキ状のアルミの円筒がついていて、照明かなあと思って眺めていましたら、なんと「蚊取り線香ケースだよ」と教えてもらいました。

by mark robinson via OEN

雑誌を見ていても、こういうことってあまり書いていないですよね。この円筒、たしかアイリーン・グレイの住居にもありましたし、まさか蚊取り線香を焚いていたとは、と吃驚です。と、これは去年の夏の思い出。

本日の「かたちと暮らす」はこちら

2017-09-04

スリムな身体


短歌というのは、連作を編むときに各人の読解力が如実にあらわれるジャンルですが、一首の代謝能力もよくわかるなあと、さいきん加藤治郎「ヘイヘイ」の作品評日記を書いて思いました。

短歌連作の序盤の入り方には定石パターンみたいなものがあって、作品の巧拙はともあれその物腰は割と似通っています。しかしながら冒頭3首で作品の輪郭が決まり、またその意図が伝わることは滅多にありません。普通はいわゆる様子見的な、いまだ〈方向の定まらない情緒〉が漂っているものです。実のところは様々な事情ゆえにそうなるわけですが、「ヘイヘイ」を読んだあとで他の連作を読むと、その〈方向の定まらない情緒〉がすべて贅肉に見えてしまうくらいこの作品は冒頭の、そしてまた全体のシェイプが綺麗なのでした。

評にも書いたとおり「ヘイヘイ」の歌には余分な情緒がない(贅肉がない)。それでいて必要な情緒はちゃんとある(贅肉を恐れてハード・ダイエットに嵌まっていない)。一首一首が、とてもスリムで均整のとれた体つきをしている。

あと詩型の融合がこんなにスムーズにいった作品も珍しい。これはたぶん「詩のパートになにをさせるか?」といった機能美的判断が最初にあったからではないかと推測するのですけど、どうなのでしょう? 他ジャンルのことって、わかるようでわからない。だから「この道具を、うちではどのように使うのか?」と考えながら、その道のプロには思いもよらない方法を考案すること(いまわたしはカンフー映画の小物づかいを思い出しながら書いてます)がとても大切。「ヘイヘイ」のスマートさの基底にあるのは、そういったプラグマティックな感覚だと思います。

本日の「かたちと暮らす」はこちら

2017-09-03

大粒の涙



最新号の週刊俳句に「超ひまつぶし鼎談」が掲載されています。話しているのは竹岡一郎、関悦史、そして小津夜景。これ、聴いた人が怒り出してもおかしくないくらい意味不明な箇所の多いトークです。しかも3回連載となっています。ああっ…。

正直、公表するのがとっても嫌なんですけど、聞かれて困ることを喋ったわけではないため(ただ自分の話のスローモーさに唖然とするだけ)、けんもほろろに「やだ」とは言えない。その上、しょうもない鼎談シリーズにはSST(榮猿丸・関悦史・鴇田智哉)による「味噌ピー」話という金字塔がありまして、それを下回ることはどうやらできなかったらしく(ほんとか?)、小津は大粒の涙をのんで状況に流されることにしました。

あ、そうそう。第二回と第三回にはちょっと毛色の変わったエピソードがあります(そこに登場する専門用語は来週このブログで解説するつもりです)ので、そちらはユルめに期待してください。

♣ 本日の「かたちと暮らす」はこちら

2017-09-02

バイオリズム



知人から貰った写真。ユリカモメですね。もう冬羽になってしまっていますが、実は地中海のカモメって夏に冬羽だったり、冬に夏羽だったり、平気でするんですよ。

あまり寒暖の差がないと、毛の生え変わりも適当になるのでしょうか? 

うーん。でもわたしだって、春と秋にはちゃんと髪の毛がたくさん抜けるのに、野生に生きる彼らがそんなでどうするの?って気も。そういえば、今年は8月7日にいきなり髪がすごく抜けて、お、どうした自分、と思ったら立秋でした。カモメよりも正確なバイオリズムで生きている生物です。

♣ 本日の「かたちと暮らす」はこちら

2017-09-01

そういえば、の流儀。



この9月、スピカで月間日記「かたちと暮らす」を連載することになりました。このタイトルとは付かず離れずつかず、そういえば、の流儀で進めてゆければ、と思っています。

そういえば(と、ここでさっそく使う)、最近とあることがあって思い出した話。

中学生のとき、山口誓子の《夏の河赤き鉄鎖のはし浸る》という句を習ったんですが、いたく感激というか興奮して、この一句で400字詰原稿用紙15枚の鑑賞文を書き上げたことがあったんです。こんな枚数を学校で書いたのは、後にも先にも一回きりのこと。

何故そんなに興奮したのかといいますと、当時のわたしにはこの句が〈もの派〉の光景を言語で実現しているように見えたんですね。それで「すっごいマテリアリスティック! 山口誓子ってクール!」と感動した。

で、書き終えたあとで「そうだ、この人の他の俳句が副読本に載ってるかも」と思いつき国語便覧を見ましたら《学問のさびしさに堪へ炭をつぐ》とあって、それを読んだ瞬間、なにこれ、典型的な文壇芸じゃん、と一瞬で熱が覚めてしまったんですよ。今思い返しても唖然とするくらい一瞬で。子供の感性って、つくづくデジタルだなって思います。