2017-06-21

りんごの剝き方



結婚して半年ほど経ったころ、同居人がわたしの剝いたりんごを食べながらとても嫌そうな表情で、

「あのさ、なんで君のりんごの剝き方ってこんなに雑なの? かならず毎回、変な剝き残しがあるんだけど?」

と不満を述べたことが、ありました。

言われた方は大驚愕。というのも、こっちは同居人のために心を込めて、りんごの表面にわざといくばくかの皮を残していたのですから。それで思わず「うそ! このりんごの素敵さ、ほんとにわからないの?」としばし押し問答してしまうはめに。

それにしても、何故こんな奇癖が当時の自分にあったのかと言いますと、その原因は明白で、幼少のころ、母がわたしのために果物を剝いてくれるとき、

「ほら見て。おかあさんの果物の剝き方。セザンヌのタッチみたいに綺麗でしょう?」

と言いながら、いつも少しだけ皮のついた状態でじかに手渡してくれていたからです。そのせいでわたしは、果物を美しく剝くときは、幾筋かの皮をすっと残して、木彫さながらに〈刃物の感触〉や〈素材の質感〉を演出するべきものと信じ込んでいたのでした。

ちなみにこの話、オチはありません。偶然きのう思い出したことを書いてみただけ。唐突でごめんなさい。

あ。

ええと、うちの同居人は、わたしが勤め人だったころは毎朝お弁当をもたせてくれた程度にまめに料理をする人です。りんごの皮くらい自分で剥けよ!と思われたら相棒だけに不憫なので、付記。

2017-06-20

そうだそうですその通り。



ゆうべは諸事情あって「男とは、つまりなんなのか?」といった案件について一人であれこれ思索を深めていました。

これ、いままで一度も考えたことのない、つまり自分にとって全く興味のない議題なんですけど、とりあえずマルクス主義的フェミあたりから出発して、ラジカルフェミや本質主義を経由し、昨今のジェンダー論界隈へ至る回路を3周ほどくるくる回って辿り着いた結論は、ええと、青島幸男と萩原哲章の二人は紛れもなく天才だってことです。はい。

参考 アンサイクロペディア「男の中の男

2017-06-17

初体験。



近所の商店街で、ついにマイタイデビューしました。暑さに耐えかねて。炎天下だと、あっという間に酔っちゃいますねこれ。

2017-06-16

欲望という名の電車・山宣版






山本宣治『闘争録』には「電車生物学」なる題の70ページほどの付録がついています。これにはメタファーではない実際の電車のことが書かれていまして、

今の世の中に世知辛い電車の中には、腰掛を占領して居て割に楽な思ひをして居る連中と、吊革にぶらさがつて店先に吊るされた塩鮭のやうな窮屈を味はふ事を余儀無くされて居る連中が、現在我等の眼前に居る。云ひかへれば、「現代社会」と云ふ電車の中に「腰掛階級」と「吊革階級」とが存在する事は、どんな人でも否定の出来ぬ事実である。(電車内の階級闘争)

と本題を起こし、電車内の光景をつぎつぎと面白おかしく書き出してゆくさまは、宮武外骨なんかと全く同じ系統のノリです。こういった感じ、当時のジャーナリズムの流行りだったんでしょうか?

ただ外骨と比べると、山宣はずいぶんおっとりしている。あと、外骨ほどアイロニカルじゃない。というか、正直いくぶん抜けて見えます。興味のあることだけが、頭を占めている感じで。基本、夢想家なんですね。きっと。

2017-06-15

明るく自由な人





中学生の頃、父の本棚に山村暮鳥の『聖三稜玻璃』『風は草木にささやいた』『雲』を見つけたときの衝撃は今でも覚えています。好きだったのは「おなじく」というタイトルが面白い『雲』で、多く考えさせられたのはウルトラシュールな『聖三稜玻璃』。

当時これを読んで思ったのが「前衛って、もしかして、もしかして、やりつくされてる?」ってこと。

そののち、萩原恭次郎『死刑宣告』の「広告灯!」を知ってからは、この手の作風をいわゆる「新しさ」と関連させて読む気持ちが完全に失せてしまうことに。

で、ここから本題。

『死刑宣告』は完成度の高い詩集ですが、わたしにとって長らくこの詩集のもつ意味はそこではなく、1925年という年に出版されたことにありました。というのも、この詩集を見ると、治安維持法のことが思い出され、治安維持法が思い出されると、この法律の強行採決による改正がなされた日の夜に殺された山本宣治を思い出すからです。わたしは山宣の、明るく自由なところが好きなのでした。

2017-06-14

一人の時間の過ごし方








先日の週刊俳句でのインタビューの話。

あの中に「この本は田舎の女の子に触ってみてほしい」との発言がある。あれはインタビューで語った通り、自分の読書(眺書?)遍歴を追憶しての、単純でたわいのない思い入れ、いわば錯覚だ。

当然のことながら〈かつての私〉はもう何処にも存在しない。にもかかわらず〈かつての私〉の存在を無視することが、私にはできない。

たとえ今現在、目の前に〈かつての私〉よりも大切な人がいて、その人のことを想いつつ言葉を選んでいるような時でさえも。

李白が月を向きながら、おのれの影とおのれとの間で酒を酌み交わしたように、わたしは海を歩きながら、水面に朦朧とするかつての自分と、いまの自分との間で、あの本を書いた。

そしてまた、別に何かを書いたりしない場合でも、それが私によくある、一人の時間の過ごし方なのだった。

2017-06-13

絵本のある風景(2)



http://www.dailies.co.jp/category/blog/page/2/


>よもぎBOOKSは三鷹のインテリアショップ「デイリーズ」の隣にある、開店してまだ3ヶ月の絵本屋さん。山梨県にあるギャラリーカフェ「ナノリウム」にも小さな棚を間借りして本を売っているそうです。

品揃えについて、お店のご主人は「うちはセレクトショップではありません」と仰るものの、はたから眺めていると相当こだわりが感じられます。またWEBショップを覗くと、大人の本がものすごく充実していますが、実店舗にはよその本屋さんによる「出張本屋」の棚もあり、さらに活気のある雰囲気です。

2017-06-12

絵本のある風景(1)





行商をはじめてわりとすぐの頃から、絵本屋さんで句集を置いてもらえたらなあ、と思っていました。

それでいま、大人の本もいいかんじの分量で取り扱っている2件の絵本屋さんとおつきあいしています。そのひとつがメリーゴーランドKYOTO。昭和初期に建てられたノスタルジックなビルに存在するこのお店、一階にはミナ・ペルホネンが入居していたりも。

これまでブログに書いた本屋さん同様、メリーゴランドKYOTOもギャラリーやイベントが面白そうで、生活の身の回りのものにはじまり、ガロ・アックス長井勝一没後20周年展なんて大掛かりな企画までやっているみたいです。下はピネル工房の椅子。

2017-06-11

壺の中の別世界



モランディっぽく見えますが、絵画じゃなくて写真です。或る軒下の、泥蜂の巣。すごく陶芸っぽい、美しいフォルムです(右下の白いのは蜘蛛の糸)。

あまりに綺麗なので、もしかしたらプレミアものかもと思い「よそのお宅の巣はどうかな…」とネットで調べてみたら、どこもだいたい似たような感じ。でもいいなあ。ここに住んでみたい。

2017-06-10

俺こんなかっこいいこと言ってたんですね(笑




この発言、柳本ファンだったらどの引用かなあと思うはず。正解は「ことばの原型を思い出す午後」です。いろいろ思い巡らしたり、テレパシーを使ったりせずとも即座に「あの時のアレだな」って特定できました。文章から見え隠れする、しっぽの巻き具合で。

人生のさんさんななびょばいおれんす   柳本々々

オーギュスト・ペレという人の話




今年のル・アーヴルは開港500年を祝う夏のイベントが大盛況らしく、サン・ジョセフ教会のインスタレーションの写真を友人が送ってきました。

この教会を設計した「コンクリートの父」オーギュスト・ペレは20世紀初頭、シャンゼリゼ劇場の改築にコンクリートを使用して大議論を醸した建築家で、ノルマンディー上陸作戦によって街の8割が破壊されたル・アーヴルをゼロから再設計し、約20年かけて再建した人物でもあります。当時のフランスでこんな大計画を遂行できるのは、ペレの事務所だけだったそうで、現在のル・アーヴルはこんなフランスらしからぬモダンな感じに(中央がサン・ジョセフ教会)。


そういえば、この町に住むことになり、ペレの住宅を見て回った時は、モジュールやら収納やら見た目の空気がコルビュジェそっくりで、正直かなりショックを受けました。コルビュジェがペレの事務所出身なのは知っていたけど、まさかここまで似ているとは!って感じ。賃貸の家賃は35㎡で、わたしが学生時代に京都で借りていたワンルームと同じくらい。街全体が彼の作品だとはいえ、凄い話です。

2017-06-07

オプス(opus) とトポス(topos)



アイヌ語で死をあらわすのに「耳と耳とのあいだに座る」という表現があります。たしかに「耳と耳とのあいだ」は、意識からの距離が近いと同時に遠いような、とても奇妙な孤絶感覚をおぼえる場所。生物をぽつねんと存在せしめるトポス、というか。

ぽつねんと三角獣(トリケラトポス)に坐す我か  安井浩司

最新句集『烏律律』からの一句。トリケラトプス(三角獣)の「トプス」を「トポス」としたのが斬新です。

実は関悦史さんのブログでこの句を見つけた時「もしかして誤写?」と一瞬疑ったのですが、とはいえこれだと「トポス」と「ぽつねんと」との「ぽ」の音の響き合いが絶妙なんですよね。

句中「三角〜に坐す我」が体育座り(関西ではそのまま「三角座り」と言いますね)を連想させることで「ぽつねん」という語の印象も深まっていますし、トポスが三角形(ツノからカドへのスライド)だというのもシンプルな聖性を感じさせますし、すごく凝った細工です。

さらにトリケラトプスの語源は「tri(3)+cerat(角)+opus(顔)」なので、トリケラトポスは「tri(3)+cerat(角)+topos(場所)」。つまりこの句は「獣に生えた1本の鼻角と2本の上眼窩角とが描く三角形に坐る私」の光景であり、先に見たアイヌの表現と比較しても「耳」と「角」ということでイメージ造形が非常に近い。ファンタジー文学として眺めても大変のどごしが良いです。

(追記 関さんに確認したところ、確かにこの通りの表記だそう。安井浩司、面白いですね。)

2017-06-04

ちまちましたもの。





よく目の健康管理アイテムを薬局で購入するのですが、フランスの点眼剤は一回分ずつ小分けになっているタイプが多く、薬箱に整頓しているときの気分は完全におままごとのテンションです。ちまちましてて、きゅーんとなってしまう。

モノへの愛というよりも、もっと素朴な感動。相当たわいない、いわゆる児戯に類する充足感です。

透明の大きい方は洗浄液。小さい方がアレルギーを抑える目薬(サハラの黄砂対策)。で、面白いのがオレンジ色の炎症止めで、これ、飲み薬じゃなく塗り薬なんですね。まぶたが腫れたときなどに、ゴム製カプセルの、ほんの尖端をハサミで切って、リキッドアイライナーを引く要領で患部に塗ります。指で直接触れなくていいよう工夫されているみたいです。黄色いラミネートに入っているのは、目となんら関係のない抗生物質2錠。点眼剤にかぎらず、薬の包装デザイン全般に「ミニチュアの味」があることを示すために並べてみました。

2017-06-01

アポロの中の〈マドレーヌ性〉



もう20年くらい前、いまの同居人とピアノを買いに、京都寺町二条の楽器店を訪れたことがありました。家の外でも弾きたいときに練習ができるよう、大学のサークルBOXに私物として一台置こうと二人で相談したんですね。

そこでいろいろと試弾してみて、ダントツで好みだったのが、ザウターのアップライトピアノ。音色に慎しみと知的な艶とがあって、さらに木材の質感もたまらない。デンマーク家具みたいで。同居人もザウターLOVEだったようで、これ欲しいね、車と比べたら呆れるくらい安いしね、うんぬん、とお互い感動しあって、最終的に中古のアポロを購入することに(この世には予算というものがある)。

で、ここから本題なんですが、アポロはすごく良かったです。音が開放的で伸びがあり、こちら側がそっと御する感じのピアノ。シューマンの『子供の情景』みたいな曲を神妙に弾くと、本当に小さな頃に戻ったような、甘美なマドレーヌ気分に浸れます。

さっきネットを眺めていたら、いま日本に国産ピアノメーカーが3社しかない(ヤマハ、カワイ、そしてアポロの東洋ピアノ)という衝撃的な話を知ってしまったため、なんとなく書いてみました。おしまい。