2017-02-22

肉よさらば



朝8時の広場。カルナヴァル(謝肉祭)出動前の山車。

ニースの山車は、毎年「○○の王様」という風にテーマが決まっていて、職人たちがさまざまな人形をこしらえては腕を競い合う。今年のテーマは「エネルギーの王様」。この山車、遠くから眺めていると「なにがすごいんだか全然わからん…」って感じなんだけど、近くで見るとけっこう繊細で悪くない。

数週間つづく祭の最終日には、この王様たちを舟に乗せて海へ流し、花火を上げて火葬にする。

ところでカルナヴァルとは一体なんなのか?というと、四旬節直前に催される民衆的祝祭のこと。ならば四旬節とは?というと、これはキリストの復活祭に備えて「肉断ち」その他の禁欲を守らなければならない期間のことで、この物忌みが復活祭当日までなんと46日間もつづくんです。知ってました? わたしはこの日記を書くのにさっきウィキに教えてもらったばかり。知りたてほやほやです。

つまり「四旬節に入ると復活祭までシケた毎日になるから、その前に駆け込みで騒いでおこう!」ってのがカルナヴァルといふもの。たぶん。

2017-02-21

海の転用


海の神の名はさまざまにある。ギリシアのポセイドン。ローマのネプトゥヌス。ポリネシアのタンガロア。

日本には底筒男命(そこつつのおのみこと)中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)なんてのも。なんで三柱?とふしぎに思っていたら「海流ってね、海底、海中、海面、それぞれ全く違う物理法則でうごいてるんだよ」と同居人が教えてくれて、それ以来住吉三神を凄いなあと思うようになった。


あらゆる言語にあって、無生物に関する表現の大部分が、人間の身体やその各部、また人間的感覚や情念から転用されたものであるということは注目に値する。たとえば、「頭」は頂上や始まりを、「額」「背中」は前後を意味する。また、ねじの「目」とか、家々に灯(とも)る「目」とか。「口」は開いたもの。「唇」は瓶などのへり。鋤や熊手や鋸や櫛の「歯」。「鬚(ひげ)」は根。海の「舌」(入江)。川や山の「喉」とか「喉頭部」。土の「頸」(丘)。川の「腕」(支流)。「手」はわずかな数を。海の「胸」は湾を。「脇腹」や「横腹」は隅を。(中略)果実の「肉」とか「骨」。水や石や鉱石の「脈」。ぶどうの「血」はぶどう酒。大地の「腹」。空や海は「笑い」、風は「(息を)吹き」、波は「囁(ささや)き」。(ヴィーコ『新しい学』)

現代人から見ると、空や海が「笑う」というのはなんだか新鮮。わたしたち、怖いくらい大きな「笑い」に囲まれて日々暮らしていたんですね。

2017-02-19

バス停を抱きかかえ



すごく天気が良いので、外でおひるごはんを食べることにする。バス停でバスを待っていると、かもめがいつものようにキョエーキョエーとあそんでいる。

のどか、のどか。

君の名がつくバス停を抱きかかえ事情聴取を受ける七月

ふと、こんな歌が脳裏をよぎる(夏じゃないけど)。澁谷聰介の作品は、ほとんど知らない。ただ上の歌と、

ジョン・レノン似の人妻にキスすると胴上げされる条例採択

のふたつが大好きで、しょっちゅう思い出す。とてもうきうきした音楽が鳴っているし、この世界とクロスする異次元感覚も素敵だ。

2017-02-18

その人の本棚・後編。


居留守文庫に置かせてもらっている本の書影。つづき。

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Haïku des quatre éléments(俳句、その四元素) / Jacques Poullaouec
Pourquoi les non japonais écrivent-t ils des Haïkus?(非日本人が俳句を書くのはなぜか?) / Alain Kervern
Haïku du chat(猫ハイク) / Jacques Poullaouec
Haikus du temps qui passe (俳画集アンソロジー)
Haïkus des quatre saisons(俳画集アンソロジー)
【みみず・ぶっくすBOOKS】第5回 ロジェ・ミュニエ『北斎画でめぐる四季の俳句』
Miroirs de la nature(俳画集アンソロジー)
【みみず・ぶっくすBOOKS】第11回 『自然の鏡/俳句拾遺』
Zombie Haiku: Good Poetry For Your...Brains / Ryan Mecum
【みみず・ぶっくすBOOKS】第8回 ライアン・マコム『ゾンビ俳句』
Hillary Clinton Haiku / Vera G. Shaw
【みみず・ぶっくすBOOKS】第9回 ヴェラ・G・ショー『ヒラリー・クリントン俳句』
Clefs magiques : Haïkus / Jean-Léonard de Meuron
【みみず・ぶっくすBOOKS】第12回 ジャン=レオナール・ド・ムロン & フレデリック・ル・ルー・デルペッシュ『魔法の鍵』
● Haïku, mon nounours / Gilles Brulet
【みみず・ぶっくすBOOKS】第14回 ジル・ブリュレ&宮本千安紀『はいくま』

         

2017-02-17

その人の本棚・中編


そんな性格だから、もちろん自分の本棚を見られるのも恥ずかしい。にもかかわらずこういった経緯から、居留守文庫という本屋さんの一角に「箱馬本箱」一個分のプライベート・ショップをオープンしてしまった(この本箱、特に一個限定ということはなく、五個くらいまで大丈夫だそう。上限は200冊程度)。

日本語の本も10冊ほどセレクト。表紙から内容を透視するに(わたしは読まずに語る学派、透視分化会所属なので、大抵の本は雰囲気を味わうだけ)、文学畑の人よりも演劇をやっている人向きのセレクションかもしれない。


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【現代の批評叢書 全10巻】
渡辺一民 神話への反抗 現代の批評叢書 1 思潮社 1968(昭和43) 初版 ¥800
大岡信 蕩児の家系 : 日本現代詩の歩み 現代の批評叢書 2 思潮社 1969(昭和44) 初版 ¥800
渡辺武信 詩的快楽の行方 : 戦後詩の状況とその詩人たち 現代の批評叢書 3 思潮社 1969(昭和44) 初版 ¥800
粟津則雄 詩の空間 : 粟津則雄文学論集 1957-1966 現代の批評叢書 4 思潮社 1969(昭和44) 初版 ¥800
粟津則雄 詩人たち : 粟津則雄文学論集 1966-1967 現代の批評叢書 5 思潮社 1969(昭和44) 初版 ¥800
粟津則雄 詩の意味 : 粟津則雄文学論集 1967-1969 現代の批評叢書 6 思潮社 1970(昭和45) 初版 ¥800
遠丸立 死者もまた夢をみる : 私のなかのドストエフスキイ・私のなかの同時代作家たち 現代の批評叢書 7 思潮社 1970(昭和45) 初版 ¥800
渋沢孝輔 詩の根源を求めて : ボードレール・ランボー・朔太郎その他 現代の批評叢書 8 思潮社 1970(昭和45) 初版 ¥800
寺山修司 暴力としての言語 : 詩論まで時速100キロ 現代の批評叢書 9 思潮社 1970(昭和45) 初版 ¥800
● 北川透 幻野の渇き : 詩とコンミューン 現代の批評叢書 10 思潮社 1970(昭和45) 初版 ¥800

         

2017-02-16

その人の本棚・前編



「本棚を見れば、その人がどんな人なのかわかる」という常套句があるけれど、人の家にいって、その人の本棚を見る人って、実際のところあまり存在しない気がする。だって、人の本棚を見つめるためには、ある対象に興味を示しているこの私をその人に見せなければならないわけで、要するにその人から「あ。この人はこういう本に興味をもつんだ…」と見られてしまうわけだ。

うーん。

はずかしい。

なので、だいたいじぶんは、見たいな、と思ったときでも(ごくまれに思う)、いたってぼんやりしたふりをしている。見ることのブーメランを考えただけで、胸がドキドキしてくるから。

2017-02-15

人生。




悪の名詞化この世まばゆいチューリップ  田島健一

2017-02-14

笑う犬



遊歩道から砂浜への階段をおりた瞬間、むかし泳ぐのが大好きな犬が、そのカラダのほとんどを海の下にもぐらせていても丸わかりな浮かれ具合で沖へ沖へ泳いでいた  飼い主に置いてきぼりをくらわないか気になるのか、つねに首だけはこちらに向けながら  ときのことを思い出した。

犬は、首を曲げている方向に曲がってしまう。それにはっと気づいてまた沖を目指すのだけれど、やはり砂浜の飼い主が気になるようで、すぐにまた曲がりはじめる。それで、いつまでも海中をくるくる回りながら、そのありさまに笑っているのだった。犬が。

春てぶくろにおぼつかなくも棲む海か  小津夜景

2017-02-13

早春と花



2月に入ると、市場から道端まで、至るところでミモザと黄水仙が売られはじめる。

花を育てているのは、その昔イタリアのなんとかいう村から移住してきた人々。この町の山の方に固まって住んでいるせいか、いまでもそのエリアには少なからず自治集落的な雰囲気が残っている。

彼らは毎日山を降りてきて市場で花を商うのだが、ミモザと黄水仙だけはどういうわけか他の業種の人  八百屋、香辛料屋、蜂蜜屋、石鹸屋、缶詰屋、香水屋、油屋などなど  も店先で売っている。ふしぎ。

一般家庭の人も、自分の家に咲いたのをちょっと手折って人に配ったり、教会の前なんかで売ったりしている。このふたつの花は、他の植物とステータスがぜんぜん違うみたいだ。

ミモザ咲き海かけて靄 (もや) 黄なりけり  水原秋桜子

2017-02-12

運命に呼ばれる


先日少し書いた心意六合拳は、中国河南省の回族に伝わる武術。で、「最強」としてそれに並び称される八極拳はというと、こちらもまた河北省滄州の回族が起源なんですね。これ、武術と縁のない人にはかなり新鮮に感じられる話のようです。

もともと滄州は武術の聖地として古くから有名で、早くは『漢書』に滄州人の武術三昧の記述が出てきますし、明・清時代には武挙(科挙の武官ヴァーション)の合格者を1937名輩出しています。ちなみに『水滸伝』の冒頭で林冲が島流しになるのもこの地。武侠小説ゆえ、とうぜんそのくらいのプロットでないと話が始まらない、というわけ。

ところで学生の頃、通っていた教室のつてで八極拳発祥の地である滄州の孟村にゆくチャンスがあったのですが、にもかかわらず研修費をつくれずに断念したことがありました。まさか両親に「八極拳の修行をしたいのでお金を下さい」とは言えないし。で、その話を先日ある人にしたら「あなたの態度は典型的な『運命に呼ばれていない』ってやつだね。人が運命に呼ばれるときは、金の問題は言うにおよばず、法を犯すことすら恐れないで、すべてを乗り越えてそこへいっちゃうんだから」と言われて、たしかに自分の周囲を見回してもそれは本当にそうで、ああ、ほんとうにそうだな、そうなんだよなって思うことしきり。

ぶつかつて蝶が生まれる土俵かな  小倉喜郎

2017-02-11

書家っぽい絵描き。



『ぞうのババール』の絵が好きで、たまに買ってはクッキーみたいに配ってしまう。

ジャン・ド・ブリュノフの絵はとても気ままだ。

もちろん気ままといっても全体の構造はある。でも彼の場合、描線の動きが構造に束縛されず、またそれに寄与しようとした気配もない。つまり彼の描線は、なんのためでもなく単に自由。

そこが好き。

じっと眺めていると、良寛を思い出すことも。その構えない感じもそうだし、あと造形がフィギュール(形)ではなくリーニュ(線)から成っているように思われることもあって、書を味わう気分になるらしい。



2017-02-10

チャック・ベリーと心意六合拳



武術の練習は、浮き浮きした気分でいた方が身体の反応が良くなるので、そういった映像や音楽をかける。これまで一番多く見た動画はダントツでチャック・ベリー。この人の足腰はすばらしい。

と、こう書くと『拳児』の愛読者は百回頷いても頷き足りないはず。だってこの人のダック・ウォークは中国武術で最も威力がある(俗っぽくいえば「最強」の)二大拳法のうちの片方、心意六合拳の鶏行歩にそっくりだし。上のレコードなどは、微笑と手つきが如来の域に達しているし。




チャック・ベリーの歩行術は右足の膝を曲げ、左足を伸ばして、とんとんと前に進む。あるいは両膝を曲げ、足を地面につけたまま、すり足で前に進む。そしてあの内股。あれは身体の力をたくわえる蓄勁と呼ばれるポーズで、次の動作に起爆力を与える。原理が拳法とまったく同じだ。

この動作は子どもの頃にして大人に受けたものをステージで再現したらしいのだけど、集団的産物なのかそれとも個人的な思いつきなのかは調べてもわからなかった。ロック・ミュージシャンの生い立ちに詳しい方がいたらどうか教えてください。

2017-02-09

春の虫



さいきん家のなかでちらほら虫を見るので、ん、春だな、と思う。

虫は、落ちついた心でむきあうと素敵。ただ本気でかかずりあうと一生を棒に振りそうなので、彼らのことはほどよく意識の外において生活するようにしている。で、実際そうできるということは、わたしは虫を愛する才能に欠けているのだ。

わたしの義理の母には虫愛づる君の素質があり、ごきぶりをガラスの容器に入れてデッサンしたりする。以前そのスケッチブックを見せてもらったときは、ほんとに御器をおかぶり遊ばされたような立派なあたまでいらっしゃった(じぶんの大きな勘違いに気づいた今でも、そう思う)。

背もたれとあらば凭れる日うらうら  長嶋有

2017-02-07

ラジカル・シンプリシティ。



ぽっかりと、頭に穴があいているところに親しみをおぼえる。

水を入れると、底から水が滲みでてしまうダメさも愛おしい。

乾燥させた花を、頭に挿してみたこともあるのだが、なにを挿しても間の抜けたふんいきになる。じぶんが花瓶であるということに気づいていないから。

わたしは花瓶ではないのですが、やはり頭に穴があいているようで、立春をすぎるとその穴から、ふん、ふん、と浮き足立った歌がきこえてくる。ハミングっぽい、シンプルな歌ばかりが。

歌うとは、無駄なものをとりのぞいてゆくこと。鳥のように。


冬の夢のおどろきはつるあけぼのに春のうつつのまづ見ゆるかな  九条良経

2017-02-06

こころときめきするもの



知人と夕食をすませ、帰りに街中を通ったら、カーニバルの準備が着々と進められていた。

カーニバルを待つ時間というのは、胸がどきどきする。

祭そのものが待ち遠しいのではない。そうではなく、足場を組んで、舞台が見えてきて、でもそこにまだなにも起きていない感じが好ましいのだ。なにかが出現する前の空白って、その前後になにもない茫洋な空白とぜんぜん質が違う。

いっぽう祭のあとの空白は気に入らない。というか、ポスト・コイトゥス的な実感がおしなべて苦手である。それゆえ馬鹿騒ぎするときも途中でおいとまするし、ごはんも日頃からおなかいっぱい食べない。より満たされるために、完遂の手前でその行為を止めて、いまここの快楽をどこまでも膨らますわけである。

なにかを待つといふ感覚はひどく奇妙なものだ。約束が叶ふまでの時間がすつかり虚ろになつてしまふ。そのくせその空白に別のものを注ぎ込むこともできない。来るべき瞬間を待ちこがれる心だけですでに一杯なのだ。
いちまいの霧薫きしめて酒杯かな  小津夜景
(フラワーズ・カンフー『出アバラヤ記』より)

2017-02-05

はいくまちゃん。



本日の「週刊俳句」に、フランスの俳句事情を紹介する【みみず・ぶっくすBOOKS】の第14回を寄稿しました。『はいくま』という幼児向け絵本について書いています。

記事で触れ忘れた話をひとつ。『はいくま』のイラストを担当されている宮本千安紀さんはご自作のweb shopをなさっている模様(こちら)。とても可愛らしいフランス語の絵本、雑貨、版画などを購入することができます。

そして上の写真は【みみず・ぶっくすBOOKS】でこれまでに紹介した本などを、なんとなく並べたのでした(『フラワーズ・カンフー』を数冊混入させつつ)。

2017-02-03

丸さに近づく



近所にとても可愛らしいおばあさんがいる。

おばあさんは少し惚けていて、丸いものに異常なこだわりがある。散歩の途中に丸いものを見つけるたびに足を止め、じっとその丸さを観察するのだ。あるときは雑貨屋の前に山積みになっていたフライパンの前に佇んで、とびきり大きいフライパンを、ゆっくりとなんども撫でていた。丸い物体を見ると、どうやら生き物を想うらしい。

おばあさんは教会の天井も好きだ。これはわたしもわかる。教会の天井って、なんだか吸い込まれてしまいそうな。手をのばしたくなるような。

2017-02-02

自分史上(たぶん)最大の謎・絵画編



絵を眺めるのが割と好き。でも眺めているだけなので、謎に感じたことがずっとそのままだったりする。

これまでに抱いた自分史上最大の謎は、マネ『草上の昼食』の元ネタにかんするそれ。学生の頃、たまたまこの作品の資料をいくつか見たら、どれもそろってこんな風に解説していた。

作品の背景に描かれている森林はティツィアーノ(ジョルジョーネ作とも言われる)の『田園の合奏』に、作品中の手前の3人の人物の配置は、1515年頃にマルカントニオ・ライモンディ(Marcantonio Raimondi)によって制作された、ラファエロの『パリスの審判』を基にした銅版画に、それぞれ由来する(出典wiki


で、わたしには、マネの絵の背景が『田園の合奏』に由来するという解説が「え?」って感じなんです。だって、まずぱっと見がぜんぜん似ていない。さらに、そもそも背景を含めて『草上の昼食』そっくりの絵が、ヴァザーリの家にちゃんとある。

アレッツォを訪れたのはかなり昔ゆえ、寸法はうろおぼえなのだけれど、たしか2号から4号くらいだった気が。作者は不詳。肝心の内容について述べると、3人の人物が『草上の昼食』よろしく中央に配され、その部分のみ明るいのも同じ。周囲を暗い樹木が囲んでいるのも、空気感も同じ。唯一違うのは作品のトーンで、マネの緑に対しヴァザーリの家にある方は深紫がかっていた。

ティツィアーノ&ラファエロ説を信じていた当時のわたしの、その絵を見つけたときの衝撃といったら。『草上の昼食』は名画の聡明なコラージュではなく、すでに存在した小品のヴァージョンアップだったんだ!と本気で叫んだくらい(心の中で)。

なぜ研究者はあの絵に言及しないのだろう? この長年の疑問に答えてくれる知り合いがいないのが本当にざんねん。

2017-02-01

言葉の光について


子どもの時分は、生家にあった本をたくさん読んだように思う。

生家を離れてからはめっきり本を読まなくなった。

シンプルに言うと、貧乏になってしまったのである。渡仏後はますます困窮し、結婚してから俳句と出会うまでの十数年間に買った新しい本はわずか2冊。もし日本に住んでいれば、お金がなくても図書館にゆけばいい。が、フランス住まいだとそれもできず、若いころに手に入れた数少ない本を、ずっとくりかえし眺めてきた。

おそらく俳句のことがなければ、ふたたび本を買うようにはならなかっただろう。CDやDVDを買うことも、映画を観ることも、飲み歩くこともないから、本当に俳句だけが特別なのだ。

本は、じぶんにとって、今もって遠い存在である。きのうの日記で「手元にある本を、なんども読むのが好きだ」と書いたのは全くもって生来の嗜好であるが、また同時に現実の要請でもあるに違いない。

そんな訳で、じぶんのところにやって来てくれた句集を、奇蹟のような心もちで眺めている。

一冊の句集の中には、おのおのの俳人による汲み尽くせない世界が広がっていて、その世界に触れるたびに、どれだけ自分が長いあいだ本から遠くはなれた場所で生きてきたのか、どれだけ言葉のもつ光を欲し、またおいそれと手に入らないそれを憎みつつ愛してきたのかを身震いするほどに思い知らされる。

それはそうと『フラワーズ・カンフー』を編むとき、わたしはこの本の暗いモチーフを、言葉の光、知性の光でなにがなんでも明るくしてみせようと思った。それがうまくいったかどうかはわからない。ただわたしはあいかわらず光に飢えていて、おのれの内側をどれだけ強く照らしても一向に満足できず、暴力的なまでに一閃のヴォルテージを上げつづけた結果、古代「影」の意味が「光」であったように、極限の眩しさの中でますます闇に目盲いている。

たれもかれも幻を視るまぼろしぞ 眩し まぼろしなればほろびず  小池純代