2017-12-31

『しししし』発売



双子のライオン堂発行の雑誌『しししし』に寄稿しています。12月31日発売です。

<目次>

○特集「宮沢賢治」
暁方ミセイ/長野まゆみ/室井光広/山下聖美/吉本隆明

宮沢賢治作品のコミカライズ
くれよんカンパニー/坂口尚

「銀河鉄道の夜」他1篇の読書会模様収録

○創作
小津夜景/オノツバサ/結崎剛/吉田知子

○読み物
東浩紀/荒木優太/岡和田晃/川崎昌平/木太聡
倉本さおり/高橋啓/戸谷洋志/仲俣暁生/橋本倫史
三輪太郎/宮崎智之/屋敷直子/柳原伸洋/山本貴光/吉川浩満

○企画
様々な書店の日常を綴った「本屋日録」
Cat’s Meow Books/H.A.Bookstore/Readin’ Writin’/青いカバ/えほんや なずな
劃桜堂/敷島書房/書肆スーベニア/パン屋の本屋/ひなた文庫/双子のライオン堂

公募エッセー「本屋の思い出」大賞作掲載

読者によるコラム「本と生活」
鮎食亭電柱/伊藤あきこ/片山昌美/鈴木涙香/高垣ぼす
中村圭佑/廣瀬さとる/藤村忠/松井祐輔

詳しくは⇩
http://shishishishi.liondo.jp/

2017-12-29

序章よりはじまる夏


胸に聴くプロペラの音夏は来ぬ  西原天気

きのうはあまりに寒いので、こんな句を思い出して、冬から目をそらしていました。

まっさらなノートの1ページ目が、似合いそうな句。

序章のような静けさの中に、秘められた高まりが感じられる。

静けさと高まりとが一句の中で釣り合った句は、〈バランス〉というものを大切な〈質感〉として捉えているこの方ならではのパターンの一つ。
 
発情のかそけし虹の立つごとし  西原天気
噴水と職業欄に書いて消す  
ハンカチを干していろんなさやうなら

2017-12-28

水原紫苑のサンクチュアリ。



ロシアのさんま缶、開けてみましたら、闇鍋的なところはまるでなく、いたってふつうの味でした。2尾入り。かの地に旅行することがあれば、また食べよう。現地では、1缶45ロシアルーブル(91円)らしいので。

以下、クリスマスに考えていたこと。

処女性というのは短い詩型で扱うのがなかなか難しいモチーフ。これに対し童貞性は、現代においてもサンクチュアリとして充分機能するように感じます。それでいま、老童貞の連作がつくれないかしら、となんとなく思っているところ(明日にはすっかり忘れているかもしれない)。水原紫苑のこの歌とか、凄いですよね。


大いなる襟被(き)て死後も歩みくるザビエル汝(なんぢ)童貞なりや  水原紫苑

2017-12-25

さんまの缶詰


毎年クリスマスイヴはそれらしいごはんを食べる。でも今年は同居人が、ふつうのごはんにしようと言うので、ムール貝の白ワイン煮とラングドック地方の果実酒ですませた。

その代わり、昼間の買い出しの途中ロシア食材店に寄り、いつもなら買わないようなものを闇鍋気分で遊び買いする(祝祭なので浮かれている)。さんま(Сайра)の缶詰もその一つ。さんまを食べるの、十数年ぶりくらいなので、アタリだったらうれしい。

2017-12-23

悲しいので、お菓子を食べる。



明日はクリスマスイヴなのに、お菓子を食べている。明日もクリスマスケーキを食べないといけないのに。ああ。

そうそう、先日のヒラメの夫婦の話。あのあと、詳しい方が比目の詩を紹介してくださり、わーいと思って読んでみると、とても悲しい詩だったのでショックを受けた。わたしの頭の中では、夫婦がエメラルドの海をすいすい泳いでいたのに、紹介された詩は死んだ奥さんを思い出しているものなのだった。

2017-12-11

みみずをめぐる随想。


こちらのサイトで、季語「蚯蚓鳴く」についての所説がまとめられている。要点がいっぱいで、読み応えがありました。一節のみ引用。

『本草綱目』の影響力を併せ考えてみると,近世日本における「ミミズが鳴く。」という見解は,10世紀以前に渡来した『古今注』の見解が根付いたものとみるより,16~17世紀ころ,『本草綱目』等を典拠とし,「陰晴」に関する見解とセットになって,改めて渡来したものと考える方が妥当ではなかろうか。(ミミズの俗信「歌女」(2))

江戸時代は、訳注のベストセラーがいくつも生まれたくらい町人階級も漢詩を読んでいたので、みみずについても、陸游の茶詩や陳師道の絶句などを知っていたと思う。二人とも有名だし、宋代の文人趣味はそのまま江戸時代の俳人たちに丸ごと吸収されたし。とくに陸游の茶詩は、みみずの鳴き声がどんな感じかわかるので嬉しい。

茶鼎声號蚓,香盤火度蛍。(陸游)

茶鼎の声は、號ぶ蚓。香盤の火は、度る蛍。
(茶釜の沸く音は、叫ぶミミズのよう。
香盤を灯す火は、巡るホタルのよう)

木揺電繞雷取龍,伏蛙號蚓溝瀆空。(陳師道)

木は揺れ、電(いなずま)は繞(めぐ)り、雷は龍を取る。
蛙は伏し、蚓は號(さけ)び、溝は空を瀆す。

2017-11-29

蒸しプリンとか、唐崎の松とか



『蒸しプリン会議』2017★秋冬コレクションの画像です(岡田由季さんの日記から、こっそり拝借しました)。去る11月23日の文学フリマで販売された冊子。残部あります。

参加メンバー:太田うさぎ・岡野泰輔・小津夜景・笠井亞子・西原天気・鴇田智哉
装画:夜景
意匠:亞子
B7判・全8頁
頒価100円

入手方法1 メンバーから直接
入手方法2 tenki.saibara@gmail.com まで送付先をお知らせください

♣︎ ♣︎ ♣︎ ♣︎ ♣︎ ♣︎ ♣︎


きのうの日記(*漢詩のカテゴリは現在整理中です)を読んだという方から、唐崎の松の写真を頂戴しました。

唐崎の松といっても、近江八景「唐崎の夜雨」で知られるあの霊松ではなく、船の出る岸辺にある、つまり江馬細香の詩題となったかもしれない松だそうです。ありがとうございます。

2017-11-20

文学フリマ東京のお知らせ


11月23日の文フリ東京。週刊俳句(F-52)ならびに庫内灯(G-12)のブースに参加しています。

♣︎ 週刊俳句(F-52)♣︎
「蒸しプリン会議 秋冬号」に「ウォータークロゼット」を寄稿。判型はB7判(てのひらサイズ)と小型ながら、プロのデザインによる可愛い本に仕上がりました(って実はまだ現物が存在しないのですけど)。造本は会議メンバーによる手作業。あ、こちらのブースには『フラワーズ・カンフー』もあります。

♣︎ 庫内灯(G-12)♣︎
BL俳句誌「庫内灯 3」に「ボーン・イン・ザ・冥土」その他を寄稿。今回のテーマは越境・海外俳句。俳句の執筆者は9名。上海→満州→モンゴル→台湾→ベトナム→バンコク→ドゥブロヴニク→フランス→冥土、と越境の旅を繰り広げます。

♣︎ 第二十五回文学フリマ東京 ♣︎
開催日  2017年11月23日(木祝)
開催時間  11:00~17:00予定
会場 東京流通センター 第二展示場
アクセス  東京モノレール「流通センター駅」徒歩1分

2017-11-18

片足の鳥のこと


さいきん刊行された『原民喜童話集』のことを考えていて、子供の頃、佐藤敏直のタイトルの雰囲気が好きだったことを思い出した。「ちいさなパレット」ではなく、好みだったのは和楽器による、このあたり。
・片足鳥居の映像(1971)
・鳩のいる風景 ~二本の尺八のために~(1974)
・群青 ~三面の十七絃のための~(1981)
・灰色の風のデッサン(1978)
・糸のためのコンチェルト(1983)
「片足鳥居の映像」は、なんて詩的なタイトルなのだろうと大切に思っていて、それが原爆と関係していることに気がついたのは大人になってからだった。

2017-11-04

現代詩食堂



少し前の話ですが「現代詩手帖」10月号刊行記念のフリーペーパー「現代詩食堂」に、須藤岳史さんが『フラワーズ・カンフー』を「食の本」としてご紹介くださいました。今朝ポストにそのフリーペーパーが届いていたので、お茶を飲みつつ拝見した次第。

あと、最近巻き終わった歌仙がこちら(♣️)に。楽しい解説つき。

2017-11-01

「川柳スパイラル」創刊



「川柳スパイラル」が創刊されました。

といっても、まだ雑誌を手にとっていないんですよね。川柳スープレックスその他でお世話になっている飯島・川合・柳本の三氏、書評を書かせてもらったことのある小池・兵頭の二氏、そして相棒の入交佐妃が関わる雑誌なので、読むのを楽しみにしているんですけど。


「川柳スパイラル」創刊号目次

1  巻頭写真 入交佐妃
3  創刊のご挨拶・渦の生成 小池正博
6  同人作品 Spiral Wave
18  おしまい日記 第一回 柳本々々×安福望
23  いかに句を作るか 第一話 川合大祐
27  現代川柳入門以前 小池正博
31  小遊星 飯島章友×小津夜景
35  会員作品 Plastic Wave
41  現代川柳あれこれ Biotope 小池正博
47  投句規定・合評句会案内
48  妄読ノススメ 兵頭全郎
50  第一回東京句会
52  編集後記

実はこの創刊号、小津のインタビューも掲載されています(ありがとうございます)。対話という形式をつかった〈作品〉ではなく、ふつうに生の声(ってなんだ? 本当にそんな声が可能なのか? とは聞かないでくださいね。てへ。)でお喋りした記事です。興味のある方は編集発行人の小池正博氏までお問い合わせください。

2017-10-22

宇宙間について・後編


句集『途中』の制御しがたい遠近&重量感覚は、身体を詠んだ句にも及んでいる。

澄む水に浮かんだままの主人公  松井真吾
吊革のなくて摑んだ夏の山  〃
生命線背中まで伸び秋終わる  〃

一句目は「主人公」が「浮かんだまま」というのが絶妙におぼつかない。二句目は摑んだものが大きすぎる。三句目は命の目盛りが伸びすぎだ。

で、措辞のリズムや、脱超越的な身体描写などが、やっぱり現代川柳っぽい。

そういえば自分は、現代川柳で割とよくある〈脱超越的身体〉を俳句に導入できないかしらと思い、仮に俳句における身体把握が人文学的だとするならば川柳のそれは工学的であり、ロマン主義に陥らずに身体を脱臼させる〈狂度〉が技法として行き渡っているといったメモや、普川素床さんの川柳における身体的〈狂度〉をめぐる放談や、福田若之さんの俳句を前田一石さんの川柳と比較して俳句的身体の非脱臼的傾向を述べた日記(これ、なぜか枕が関心を集めるようですが本題は中盤以降です)などを書いたことがあるのだけれど、松井さんの句集を読むと、川柳と俳句とを行き来するのはそう難しくないのかも、とちょっと胸がはずむ。

ところで松井さん、普川素床さんとは句会仲間らしい。普川さんと句会をするってどんな感じなのだろう? そこも宇宙間的文脈で大いに気になるところだ。

できたての虹からあふれだす達磨  松井真吾

♣ 参考リンク ♣
【みみず・ぶっくす42】川柳とその狂度
【連載放談】普川素床読解入門 小津夜景×柳本々々-第1回 また終わるために-
【連載放談】普川素床読解入門 小津夜景×柳本々々-第2回 ねえジョウ-
【連載放談】普川素床読解入門 小津夜景×柳本々々-第3回 いざ最悪の方へ-
【連載放談】普川素床読解入門 小津夜景×柳本々々-第4回 まだもぞもぞ-
【連載放談】普川素床読解入門 小津夜景×柳本々々-第5回 しあわせな日々-
〈世界〉の手前から フラワーズ・カンフー * 小津夜景日記

2017-10-21

宇宙間について・中編


きのうの「松井真吾さんの句から現代川柳を連想した」件。これは多分に感覚的な話(それゆえ言語化するのが億劫)なので詳細は省くけれど、たとえばこんな波長のもの。

初夢のあいだあいだのコマーシャル  松井真吾
涅槃図のトムはジェリーを追いかける  〃
秋の蚊の想定外のテレパシー    〃

一句目は「初夢」から入って「コマーシャル」に着地するという発想が素敵。「あいだあいだ」という繋ぎ方も、全体の音の張りもいい感じ。

二句目は季語がぴったり。トムとジェリーの図像を涅槃図に落とし込むといったアイデアは、現代アートにもなりそう。

三句目は「想定外の」がキモ。句が躍ってる。こういった、一歩間違うと説明オチになりかねない微妙な表現を、巧みに使いこなすことで生じる愉しさ。

あ、あとこの句集、異様な速度を詠んだ句が多すぎるところもヘン。

ひとり居の父雛壇を駆け登る  松井真吾
雨乞いの校長廊下を駆けてゆく  〃
お客様転落のため夏終わる    〃

こうした風景もまた、松井さんよる世界認識の、制御しがたい遠近&重量感覚から来ているのだろう。

2017-10-20

宇宙間について・前編



柳本々々さんが松井真吾さんの俳句を〈収拾のつかない空間〉と評している(続フシギな短詩164)が、これって松井さんその人の生きている場所をそのまま言い当てている、と思う。なぜそう思うかというと、少し前に松井さんとメールで話していたとき、スピカにわたしの書いた「国宝さん&重文さん」のエピソードに松井さんが触れて、

「よくわかります。わたしはビルやマンションにある『定礎』をずっとひとの名前だと思ってました。『あ、また定礎さんのビルだ!』と。」

とおっしゃったからだ(※この話、松井さんの了承を得て書いてます)。

だいたい松井さんは、話すたびに現実離れしたことを言う方だ。たとえば野球実況の「右中間に打った~!」というのを「宇宙間にボールが飛んでいったのだ」とずっと思っていて、今でもそう考える方がしっくりくるのだ、とか。そんなわけで、彼の句集『途中』にも、奇想天外な句がちらほら。


白魚を載せて気球の飛び立てり  松井真吾

極小としての「白魚」と極大(≒膨張物)としての気球。しかもそれが浮遊する。この取り合わせには作者の、制御しがたい遠近&重量感覚が現れている。あるいは、

いっせいに椅子の引かれる蜃気楼  松井真吾

「いっせいに」といった強力な一致団結が、しがない空中の「蜃気楼」として、どっと出現する光景。これも「宇宙間」的境涯の一景かも。

こういう系統の作品には、良い意味でのすっとぼけや、あるいは知的カマトトな感じの、いわゆる作者の才気が見え隠れするものが多い。ところが『途中』はそういった雰囲気とは無縁で、あくまで素直な手触りがある。そこが新鮮で、読んでいて疲れない。あと思ったのが、全体的にとても現代川柳的だということ。ここ、わたしにとって大変気になる特色です。

2017-10-03

詩的な生活を反映したワインの香り



長崎のひとやすみ書店から「新聞のインタビュー記事、活用しています」と写真をいただく。ありがとうございます。

ひとやすみ書店の前には、巨大な本の形をした看板が立っている。ご主人はその看板に、日替わりでオススメ本を立てかけ、またその本から引いた一節をチョークで板書する。レストランみたいだ。(この板書にまつわるご主人のプチ・エッセイが、こちらに掲載されています。)

♣️

最近、白居易についての論文を読んでいるのだけれど、中国語なのでわからないことがいっぱいある。

とりあえず、ざっと判断できればよい事柄についてはグーグル翻訳にかけてみる。すると例えば「心の幽霊で彼の飛翔を表現。それは韻。ザ・彼の取材は、詩的な生活を反映したワインの香りで満たされています。」といった感じの大変わかりやすい奇文と遭遇でき、白居易に対するイメージが逆しまにしっかりしてくる(ような気がする)。

他に参考になった奇文は、

「酔った郷のトークは、問題だが、音楽もまた瞬間だ。」
「酔った喜びは、酔って一緒に飛んで飛んで、翼の生えたアンディは、"音楽の宵の断食の時代の世代の詩歌"と、言った。」

酩酊、音楽、飛翔。これが白居易のキーワードとなる(らしい)。

2017-10-01

スピカ終了。



スピカの9月月間日記「かたちと暮らす」終了。原稿の締め切りはかなり前のことだったので、今あらためて言うのは妙な感じなのですが、とても楽しかったです。

そういえば、スピカにエログロのことを書いた日があったのですが、このストックホルム近代美術館は、水墨画コレクションが充実していました。

東洋美術の展示室に入ると、壁一面にスライド式の大きな展示ガラスが本の背表紙みたいに埋まっていて、それを自分で勝手に引き出して眺める風になっているんですよ。LPのジャケットをぱたぱたチェックするみたいに作品を漁ってゆけるのでとても便利。売店に八大山人の絵葉書がいっぱいあったのも、良かった。

2017-09-28

あやとりドリーミング


© Robyn McKenzie via Australian Museum

本日のスピカ「かたちと暮らす」の画像は、イルカラのLipaki Djulapanaのつくったあやとり「海鷲の巣」をエッチングにしたもの。なお上は「蝶」。

オーストラリアのイルカラにはアボリジニの「あやとり発祥の地」があります(こちらの本に載ってました)。アボリジニのあやとりは口承と一体化したものが多く、あやとりによるドリーミングは、彼らの生きる時間と空間とを横断的に拡大しつつ結びつける役割を果たしているそうですよ。

それから、これはどうも行き詰まったような雰囲気なのですが「いまだ解読されていないイースター島の文字『ロンゴロンゴ』をあやとりの意味から読み解いてみよう」といった研究が以前あったみたいです。うーん、すごく解読できそう。だって、ロンゴロンゴって、どの字も結んだ環みたいなかたちですもの。怖いくらい。

2017-09-27

風、すなわち鳥。



現在連載中のスピカ「かたちと暮らす」で、25歳まで陥っていたひどい勘違いについて告白したのですが()、それと同様の話で、わたしはみすず書房のシリーズ本「みすず・ぶっくす」のことも40歳頃まで「みみず・ぶっくす」と勘違いしていたんですね。みすず書房って実はキュートなんだね、なんて思いながら。

こう書きつつ、視覚文化研究所の「みみずくアートシリーズ」も本当に「みみずくアートシリーズ」で合っているのか不安になり、いまググってみましたら、こちらは合っていたもよう。よかった。

本日のスピカは虚の鳥について。虚の鳥といえば殷の時代、鳳凰の「鳳」という字は「風」と同義でした。火の鳥というのは殷から約千年後、五行思想の流行によって生じた見立てで、そもそも鳳凰は「風をおこす霊鳥」だったそうです。

天地に風をもたらす神。この上なく壮大なスケールが心地良い。太古の人は、心からシンプルに、鳥を寿いでいたのですね。

2017-09-26

なにもない道路


本日のスピカはマイロウィッツの話。そんな日にスマホの写真をブログに載せるのもどうかなと思いつつ、きのう外に出たら道路が『異邦人』っぽかったので、すみません、載せちゃいます。

なにもない理由は、ここがトライアスロンのコースになっていたから。

2017-09-24

知らない島、知らない鳥。



南の島から知らないカモメの写真が送られてくる。羽根が美しい。この種は何という名前なのだろう? 

「きれいな海。この辺、大きなサメも多いでしょう?」

わたしがそう訊ねると現地で暮らす知人は、

「普通にシュノーケリング中に遭遇してもほぼ無視されますよ。目がほとんど見えなくて、漁などで血のにおいをさせない限りは襲ってこない種が多いんです。眠りザメ(requin dormeur)という名前のサメもいるくらいで」

と笑う。そして「むしろコバンザメの方が厄介ですね。フリーのコバンザメは宿主を探して追いかけて来るから」と付け加えた。それはたしかに嫌だ。

海の遊びだけでなく、椰子の下の読書も捗りそうな島。本日のスピカ「かたちと暮らす」はこちら

2017-09-23

うわの空っぽく、の愉しみ。



そういえば、9月1日は平生よりお世話になっているソノリテさんの記念日でした。愛知県常滑市より茨城県龍ケ崎市に居を移して丸4年経ったそう。

家具・木器・暮らし周りの道具・文具、そして少しの書籍を扱っているソノリテさんにご連絡さし上げてみたのは、クルミド出版の本や文鳥文庫を仕入れていらしたから。それがなかったら、きっとほわわんと眺めていただけでしょうから、縁というのは不思議です。

店内は写真を眺めるかぎり扱っているモノも多くないし、変わった感じもしない。とてものんびりと、気のむくままの雰囲気で、つくし文具店オリジナルの封筒とか、ダルマ家庭糸とか、この糸をつくっている横田株式会社企画のうれしい手縫いとか、家にあると便利そうなものが、どこかうわの空っぽく並んでいるところがツボなのでした。

昨日と今日のスピカ「かたちと暮らす」はこちらこちらです。

2017-09-21

屋根を愛する男性



本日のスピカの実験動画について、じっさいに屋根を試作しているときはどんな感じかな?と思いつつ本をめくってみましたら、上の写真がありました。どことなくレンブラントの「テュルプ博士の解剖学講義」っぽいです。写真一枚とるのに、ここまで構図をキメちゃうのもすごい。

ひとつお知らせ。『静かな場所』No.19に連作「虹の音字機」15句および田中裕明の句にまつわるとてもとても短いエッセイを寄稿しています。特にエッセイでは、わたしの中の裕明が、静謐な音楽性、軽妙な論理性、そして夭折の三つをもって有元利夫のイメージと重なっている話を書きました。いま手元に数部ありますゆえ、眺めてみたいなという方はメールください(発行人の対中いずみさんの手元にも少し残部があるそうです)。

2017-09-20

膨らむ物体



膨らむ建築やオブジェ系でさいきん良かったのがSpatial EffectのGalleryのページ。Waterの部門に長年の謎の答えがありました。

それはなにかというと、ウォーターボールに入って水辺で遊んでいる人を見るたび、あれ、いつからあるんだろう?と思っていたんです。ウィキにはこう書いてあるのですが、そんなはずないだろうと。それが、このサイトにある1969年のWaterwalkが最初だったとわかって、しかも三角錐の風船で、うーんかっこいいなあ、と。

本日のスピカ「かたちと暮らす」はこちら

2017-09-19

アーティストの部屋



あの、フランシス・ベーコンの仕事場を撮った有名な写真集があるじゃないですか。あれを見てからというもの、やっぱりデキる人はこうゆう渾沌たる空間に棲んでいるんだよなって思っていたんです(あそこまでゴミ屋敷じゃなくてもいいですが)。

それがある時、ベーコンの仕事場ではなく住居の方を撮影したパネル展を見にゆくことになり、いったいどれくらい迫力ある空間に住んでいるのだろう?とドキドキして会場に入りましたら、たいへん整理整頓の行き届いた住まいだったので二度仰天しました。ドレスシャツもすべてクリーニングに出してきれいに積み上げてあるし、リビングも社交的な家具の配置だし、キッチンも使いやすそうで「ここ、ドナルド・ジャッドの家だよ」と言われても信じてしまいそう。こちらに一枚だけキッチンの写真があります。いたって平凡ですよね。

ところで、わたし、ベーコンが超好きで。50年代以降の、背景の単純明快な作品が特に。モダンの中にひそむクラシシズムにぐっときます。

本日のスピカ「かたちと暮らす」はこちら

2017-09-18

絵と画のこと



本日のスピカ「かたちと暮らす」は抽象絵画のこと。

そういえば、絵画という単語は「絵」および「画」の字から成りますが、数年前「出アバラヤ記」という連作を書くために、中国の〈天地人の三位一体論〉と〈水墨〉との関係について考えていた時、昔は「画」が基本墨一色で「絵」が多彩色を含意していたという話を読んだことがあります。わかりやすい例としては、山水画は一色/大和絵は多色、版画は一色/浮世絵は多色、画師は水墨/絵師は色絵、といった感じ。また墨絵や淡彩画などの言い回しは、歴史の浅い和製漢語なのだそうです。

あ。週刊俳句の小津が大粒の涙をのんで流されるシリーズ第三回は、関悦史『花咲く機械状独身者たちの活造り』についてです。

2017-09-17

おしゃれで、フェアな。



本日のスピカ「かたちと暮らす」で言及したフランソワ・チェンは、東アジア関係の本に序文を寄せていることがよくありまして、ラファエル・ペトルッチ『極東美術における自然哲学』(1911年)の復刻版もそうでした。

この本、言及されている日本人絵師・画師が恵心僧都、広重、北斎、空海、光悦、応挙、雪舟、司馬江漢、狩野探幽、松花堂昭乗、大西酔月、相阿弥、野村宗達、鳥羽僧正、宮本二天(武蔵)などなどシブい。上は土佐派の伊勢物語ですが、中国絵画の方の図版のセレクトも良いです。フェノロサの仏教美術偏重を問題視したりもしてますし、ほんとペトルッチはおしゃれでフェアな美術史家だなと思います。

初版本はフランス国立図書館のサイトでダウンロードすることができるみたいです。

きのうのスピカ「かたちと暮らす」はこちら

2017-09-15

切手と金魚



本日のスピカで触れたジョセフ・アルバース、ウィキに切手の画像がありました。質感は全く感じられないけど、でも、眺めてしまいます。

切手といえば、この夏、スカイツリーにある郵政博物館へ行ったんです。圧巻だったのは切手のコレクション。スライド式の展示ガラスを引き出すと、国名&年代ごとに分かれた切手を鑑賞できるしくみになっていて、収蔵枚数は33万枚とのこと。ミュージアム・ショップも、珍しい切手がノーマルな値段で手に入って便利。ファーストデイカバー(切手と封筒と初日消印が一体になった郵趣用記念グッズ)は随時3万枚を超えるそうです。あとはですね、切手と関係ないけれど、下の階の墨田水族館の和金も良かった。俳句愛好家にはちょうどよい散策コースかも。

告知。9月13日付朝日新聞夕刊に「俳人・小津夜景さん 俳句は回路、外の世界と自分をつなぐ」が掲載されています。わたしも冒頭部分をちらっと読みました。なるほど、回路だったんだ、ふむふむ、とか思いながら。

2017-09-14

木彫りを追って



本日のスピカ「かたちと暮らす」は木彫りの熊の話。それで思い出したのは、昔、同居人と結婚しましたときに、知床半島から網走に抜ける新婚旅行に出かけたこと。

わたしは北海道生まれで、子供時代はわりと引越しが多かったのですけれど、どういうわけかいつもアイヌ文化圏の土地ばかりで、ニブフ族(ギリヤーク族)やウィルタ族については書かれたもの以外なにも知らなかったんです。それで良い機会だからということで、オホーツクの旅に出たのでした。

アイヌ文化圏の住人にとって、ニブフの木彫りはとてもキュートで少しさみしい。またセワポロロのような観光用の人形にすら「ここには別の文化をもった人が住んでいたんだ」と感じたりもします。当時はダーヒェンニェニ・ゲンダーヌ氏が始めたウィルタ文化資料館「ジャッカ・ドフニ」もまだやっていまして、わたしたち夫婦は、とりあえず網走刑務所を押さえたのち、北方民族関係の施設をいくつか回ったのでした。

余談。わたし、梅棹忠夫の書くものって好きじゃないんですが、1993年の国際先住民年のとき、アイヌ文化の企画を北海道以外の博物館でやってのけたのが彼のいた民博だけだったことは、本当に偉いなと思います。当時はまだ旧土人保護法(!)があったから、なおさら。

シロカニペ待ちかね宝船にのる  小津夜景

2017-09-13

あやとりと浮遊癖。



以前、あやとりのサイトを見ていたときに知ったのですが、あやとりという語が使われている最古の文献というのは江戸初期の俳句なんです。

風の手の糸とりとなる柳かな  俊安

寛文五年(1665年)に刊行された、野々口立圃の俳諧集『小町躍』に見られる一句。あやとりが日本古来の遊びであるといった通説の出所は小高吉三郎『日本の遊戯』(1943年)の「あやとり」の項で、そこには「これといふ考證もないが、恐らく平安朝時代から行はれてゐたものではないかと考えられる」と書かれています(≫参照)。けれどもこれは柳田崇拝が遠因となった思いつきで、大昔に日本人があやとりをしていた文字や画像資料は見つかっていないんですって。

そうそう。あやとりって、ついつい糸に目が行きがちですけれど、手のうごきの浮遊感もいいんですよね。ついさっきも、エアーあやとりをしてみたら、ものすごく気持ちよかった。

本日の「かたちと暮らす」はこちら

2017-09-12

微音空間



今日は2枚のカードを眺めました。

一枚は熱帯で働く友だちから届いた鳥の写真。そしてもう一枚は、きのうのブログを読んだという方からのグリーティング・カード。カードの絵柄は1990年冬のNHKFMシアターで言及された、有元利夫のタブローです。すごいですね。17年も前にたった一度流れたきりの番組なのに、どうして絵のタイトルがわかったんでしょう?

そのドラマのシナリオは、今にして思えばとても平凡なものでした。でも高校生の耳には充分すぎる鉱脈があった。ニュートリノやカミオカンデの話、路上のゴミをあつめる趣味のこと、犬の足跡に石工を流し込むアート、有元利夫のタブロー。そして中尾幸世の声。

中尾幸世が今なにをしているのか気になって少ししらべてみましたら「微音空間」というファンの方のサイトを発見。微音空間かあ。たいへん言い得て妙なネーミングです。

本日の「かたちと暮らす」はこちら

2017-09-11

天の記憶



本日のスピカ「かたちと暮らす」で言及した映画《La vita è bella》はアレッツォが舞台。この町のサン・フランチェスコ教会にはピエロ・デラ・フランチェスカのフレスコ画「聖十字架伝説」が保存されています。

自分がピエロ・デラ・フランチェスカを意識したのは1990年の冬。部屋で勉強しながらNHKFMシアターを聞いていましたら有元利夫の話が出てきまして、それが気になって本屋で画集を購入し、そこから初期ルネサンスに行ったという流れでした。

ところでこの二人、どちらも色彩と質感が素敵ですが、似ているようで全然似てないところが面白いですよね。ピエロ・デラ・フランチェスカの絵は平明で大胆な形態把握、緻密な構図と細部の描き入れ、クール&ビターな人間の表情などが観る者に甘美な幻想をもたらす一方、有元の絵はあいまい、省略、スイートなどがその特徴。和やかな音楽に満ちていて、壮麗な静謐さからも割と遠いですし。

木の板のうすくひびくは鳥雲に  小津夜景
(「そらなる庭に ピエロ・デラ・フランチェスカによせて」)

2017-09-10

武術と奇術


小津が大粒の涙をのんで流されるシリーズ第二回が週刊俳句にアップされています。今回の話題は竹岡一郎『ふるさとのはつこひ』について。

潰(く)えし半身虹もて補完せり吶喊(とつかん)  竹岡一郎

音声中、わたしが何度も口にする「舞」という語は伏せ字です。実際には、目の前で竹岡さんが演武してくれていた武術の技の名前が入ります。竹岡さんの流派が比較的めずらしいものなので公言を控えました。唯一、竹岡さん自身が「てんしけい」と言っているのは陳式太極拳の「纏絲勁」のこと。その他「中村汀女のことばの動きは八卦掌」といった点でも両者の意見が一致していたことがわかり、とても新鮮な一日でした。

ところで、上の句と似たリズムをもち、かつ竹岡さんが好きだと語る、


西日暮里から稲妻みえている健康  田島健一

については、武術ではなく曲芸や奇術のテンポを感じます。竹岡さんの方は腰の高さが一定し、動き出しの息を最後まで温存しつつ引っぱっている一方、田島さんの句はジャグリングのように腰が大きくゆれている。

また奇術というのは、合理的な原理を用いてあたかも〈実現不可能なこと〉が起きているかのように見せかける芸能(@wiki)ですが、田島句の語の構成、とりわけ座五のからくりには、俳句原理の中に〈合理的不可能〉を探求する姿勢が感じられます。そしてわたしは、この姿勢のひとつの到達点が「悪の名詞化この世まばゆいチューリップ」であるとも感じているのでした。

本日の「かたちと暮らす」はこちら

2017-09-09

仮象としての影、仮想としての光。



影を眺めるというのは、人間にとって、とても不思議な娯楽です。面影という語に代表されるように、影は無というよりも存在のヴァリエーションとして認知されていますし、表象の概念の根本をささえる考え方でもあります。

影が〈仮象の世界〉だとすれば、いっぽうの光は〈仮想の世界〉。光の中で存在に出会うと、それがまぼろしじゃないと知っていても、そうとしか思えなかったり。ううん、存在どころか、この世界すべてがまぼろしだと言われたみたいで悲しくなる。光って、本当に無慈悲です。


たれもかれも幻を視るまぼろしぞ 眩し まぼろしなればほろびず  小池純代

上の歌の「視」は示に見。本日の「かたちと暮らす」はこちら

2017-09-08

光の中の黒い鳥



本日掲載のスピカ月間日記「かたちと暮らす」の写真はブルーノ・ムナーリの『ABC BOOK』。子供がアルファベットを覚えるための絵本です。黒い鳥のかたわらにCrowと書いてあるので、あれはカラスということになります。

でもあの絵、目と嘴の感じや尾からして、カラスじゃなくてクロウタドリ(黒歌鳥)ですよね。上の写真の子。クロウタドリは英語でBlackbirdと言いますので、カラスってことにしておこう、とムナーリは気楽に思ったのでしょう。

クロウタドリはヨーロッパ人にとって親しみある鳥で、ムナーリは《IL MERLO HA PERSO IL BECCO》(クロウタドリはくちばしをなくしたよ)というグラフィック絵本もつくっています。全部の頁をめくりおえたあとに残る小さな心臓がチャーミングです。

2017-09-07

ここにコップがあると思え


哲学系アイテムとしてのコップは、シンプルな、匿名性の高いものだと嬉しい。

近現代の哲学にコップの比喩が多いのは、西洋におけるカフェ文化と議論との強い結びつきに由来する(たしか、そうだったはず。違ったら、ごめんなさい)。カフェは市民がさまざまな刊行物を読んだり、この世界の在り方について意見を交したりする場所。で、そのとき彼らの思考実験の道具として頻繁に引き合いに出されたのが、目の前にあるコップだった。


夏暁のここにコップがあると思へ  岡野泰輔

このコップにもまた実存主義的な芳香が漂っている。夏暁の瑞々しさによって命の誕生の気配を演出しつつ、モノが存在することの奇蹟を哲学的言説と絡めあう手つきはとても鮮やか。

掲句が収録されている『なめらかな世界の肉』というメルロ=ポンティ由来の書名も、岡野さんによく似合っていて、チャーミング。

本日の「かたちと暮らす」はこちら

2017-09-06

空には実体がない



かすかに乳色がかった空。なんど眺めても、空そのものに匂いも手ざわりもないのがふしぎ。

きのう、匂いのある本、というのを思いついた。なにもない空を眺めつつ手元の本をひらく。文字を読んでは、ときどき香りをたしかめる。じぶんじしんを嗅覚にゆだねるのは楽しいあそびだ。

本日の「かたちと暮らす」はこちら

2017-09-05

夏の思い出。


あの、南仏に引っ越して来て、コルビュジェのカバノンを見にいったんです。すると収納付きベットの上に、ロールケーキ状のアルミの円筒がついていて、照明かなあと思って眺めていましたら、なんと「蚊取り線香ケースだよ」と教えてもらいました。

by mark robinson via OEN

雑誌を見ていても、こういうことってあまり書いていないですよね。この円筒、たしかアイリーン・グレイの住居にもありましたし、まさか蚊取り線香を焚いていたとは、と吃驚です。と、これは去年の夏の思い出。

本日の「かたちと暮らす」はこちら

2017-09-04

スリムな身体


短歌というのは、連作を編むときに各人の読解力が如実にあらわれるジャンルですが、一首の代謝能力もよくわかるなあと、さいきん加藤治郎「ヘイヘイ」の作品評日記を書いて思いました。

短歌連作の序盤の入り方には定石パターンみたいなものがあって、作品の巧拙はともあれその物腰は割と似通っています。しかしながら冒頭3首で作品の輪郭が決まり、またその意図が伝わることは滅多にありません。普通はいわゆる様子見的な、いまだ〈方向の定まらない情緒〉が漂っているものです。実のところは様々な事情ゆえにそうなるわけですが、「ヘイヘイ」を読んだあとで他の連作を読むと、その〈方向の定まらない情緒〉がすべて贅肉に見えてしまうくらいこの作品は冒頭の、そしてまた全体のシェイプが綺麗なのでした。

評にも書いたとおり「ヘイヘイ」の歌には余分な情緒がない(贅肉がない)。それでいて必要な情緒はちゃんとある(贅肉を恐れてハード・ダイエットに嵌まっていない)。一首一首が、とてもスリムで均整のとれた体つきをしている。

あと詩型の融合がこんなにスムーズにいった作品も珍しい。これはたぶん「詩のパートになにをさせるか?」といった機能美的判断が最初にあったからではないかと推測するのですけど、どうなのでしょう? 他ジャンルのことって、わかるようでわからない。だから「この道具を、うちではどのように使うのか?」と考えながら、その道のプロには思いもよらない方法を考案すること(いまわたしはカンフー映画の小物づかいを思い出しながら書いてます)がとても大切。「ヘイヘイ」のスマートさの基底にあるのは、そういったプラグマティックな感覚だと思います。

本日の「かたちと暮らす」はこちら

2017-09-03

大粒の涙



最新号の週刊俳句に「超ひまつぶし鼎談」が掲載されています。話しているのは竹岡一郎、関悦史、そして小津夜景。これ、聴いた人が怒り出してもおかしくないくらい意味不明な箇所の多いトークです。しかも3回連載となっています。ああっ…。

正直、公表するのがとっても嫌なんですけど、聞かれて困ることを喋ったわけではないため(ただ自分の話のスローモーさに唖然とするだけ)、けんもほろろに「やだ」とは言えない。その上、しょうもない鼎談シリーズにはSST(榮猿丸・関悦史・鴇田智哉)による「味噌ピー」話という金字塔がありまして、それを下回ることはどうやらできなかったらしく(ほんとか?)、小津は大粒の涙をのんで状況に流されることにしました。

あ、そうそう。第二回と第三回にはちょっと毛色の変わったエピソードがあります(そこに登場する専門用語は来週このブログで解説するつもりです)ので、そちらはユルめに期待してください。

♣ 本日の「かたちと暮らす」はこちら

2017-09-02

バイオリズム



知人から貰った写真。ユリカモメですね。もう冬羽になってしまっていますが、実は地中海のカモメって夏に冬羽だったり、冬に夏羽だったり、平気でするんですよ。

あまり寒暖の差がないと、毛の生え変わりも適当になるのでしょうか? 

うーん。でもわたしだって、春と秋にはちゃんと髪の毛がたくさん抜けるのに、野生に生きる彼らがそんなでどうするの?って気も。そういえば、今年は8月7日にいきなり髪がすごく抜けて、お、どうした自分、と思ったら立秋でした。カモメよりも正確なバイオリズムで生きている生物です。

♣ 本日の「かたちと暮らす」はこちら

2017-09-01

そういえば、の流儀。



この9月、スピカで月間日記「かたちと暮らす」を連載することになりました。このタイトルとは付かず離れずつかず、そういえば、の流儀で進めてゆければ、と思っています。

そういえば(と、ここでさっそく使う)、最近とあることがあって思い出した話。

中学生のとき、山口誓子の《夏の河赤き鉄鎖のはし浸る》という句を習ったんですが、いたく感激というか興奮して、この一句で400字詰原稿用紙15枚の鑑賞文を書き上げたことがあったんです。こんな枚数を学校で書いたのは、後にも先にも一回きりのこと。

何故そんなに興奮したのかといいますと、当時のわたしにはこの句が〈もの派〉の光景を言語で実現しているように見えたんですね。それで「すっごいマテリアリスティック! 山口誓子ってクール!」と感動した。

で、書き終えたあとで「そうだ、この人の他の俳句が副読本に載ってるかも」と思いつき国語便覧を見ましたら《学問のさびしさに堪へ炭をつぐ》とあって、それを読んだ瞬間、なにこれ、典型的な文壇芸じゃん、と一瞬で熱が覚めてしまったんですよ。今思い返しても唖然とするくらい一瞬で。子供の感性って、つくづくデジタルだなって思います。

2017-08-30

サイレンの音は、夢の中で荒野を渡る風に変わった。


詩客「短歌時評」に加藤治郎さんの新作「ヘイヘイ」の感想を寄稿しています。短歌について書くのはひさしぶりなので、とても楽しくリラックスして書きました。リラックスしすぎて、筆が作品を離れないようにするのが大変だったくらい。

それはそうと、作品評を書いている最中、最初から最後まで思い出しっぱなしだったのは、

サイレンの音は、夢の中で荒野を渡る風に変わった。

といった秋山晶のコピーが有名なパイオニアのカーステレオ「ロンサム・カーボーイ」のCM。これ、片岡義男がナレーションを担当していたんですよね。小さかったわたしは「100マイルを過ぎると、風の音だけでは寂しすぎる」のヴァージョンは見た記憶がないのですけれど、ユーチューブを調べたら、どうも10ヴァージョンくらい存在したようす。

でもほんと加藤さんの短歌って、ある角度からみると片岡義男に似ていると思いませんか? そう思うのはわたしだけ? それともすでに論文があるのかしら? ともあれ今回の「ヘイヘイ」は冒頭三首で「おおっ!」と興奮させられるし、ライ・クーダーが頭の中で鳴りつづけるしで、とても困りました。

2017-08-27

セキララに。



現在発売中の『俳句』9月号「男のドラマ・女のドラマ」にエッセイを寄稿しています。

この連載エッセイ、編集部から指定されたテーマというのがあって、
♣背景にドラマを感じる異性俳人(故人)の一句を挙げる。
♣その一句を鑑賞しつつ、自分の人生の転機となったような大きな出来事をセキララに語る。
の2つがその大枠。それゆえ素直に、誰にもしたことのない恥ずかしい話を書きました。あと引用句なのですが、圧倒的なドラマ性という観点からみて、これを超える作品はこの世に存在しないんじゃないかな…って思ってます。

2017-08-25

ケイマフリとエトピリカ


さいきん北海道に縁のある方とお話する機会があって、思わず調子にのって海鳥のことを語ってしまいました。

北海道の鳥というと、シマエナガやタンチョウあたりが愛されているのでしょうか? どうなんでしょう? いずれにせよ、海鳥愛好家の人というのはあまりいないと思うんですよ。理由はだいたい想像できて、海鳥がごはんを食べているシーンってやっぱり正直「うっ…」といった感じですから。しかたがないです。はい。

で、しかたがないと言いつつ、その方に紹介したのがケイマフリ。こんなすがたをしています(写真はwikiより)。


あと、わたしの育った地域にいるエトピリカ。エトピリカはこちらに画像がいっぱいあるので、海鳥に興味のある方は、いやない方も、ぜひともご覧いただきたく。


そういえば、タンチョウとは高校生の頃、コンビニの前で遭遇したことがあります。その手の場所で遭遇すると迫力があってすごいですよ…と書きたいところですがさにあらず、とても場慣れした顔つきをしていました。鶴というのは然るべきシチュエーションで眺めると最高に神秘的な反面、海鳥では決してありえないようなドメスティックな印象を与えることも多いです。

2017-08-24

いまは読書よりも海が親しい



わたしの記憶違いでなければ、今福隆太にこういうタイトルのエッセイがあって、これを読んだのはたしか安原顕の『リテレール』創刊号だったのですが、本当にそう、そうだなって、今日も考えていました。

今福の書いていたことは一行も覚えていません。でもタイトルがすべてを語っているから、だいじょうぶです。

読書のすばらしい点は徹底的に孤独になれること。読書には、音楽を聴くときほどのヴァリエーションはなく、多かれ少なかれ一人になることを強いられます。映画のようにイマージュをもっていないから、真剣に没頭しなくてはなりません。

だから子供のころは、本にしがみつくように読書していました。

それが大きくなると、何かを得るための読書をおぼえて、最もひどい時は読んだ本の内容をすぐに他人に語る余裕すらあり、こういうのって読書しているとは言わないよなあ…と思っているうちに本を読むこと自体が怖くなってしまった。

で、これはわたしの場合「孤独になる勇気がなくなった」っていうのと同じ意味だったんですね。本の側からじっと見つめられるのが怖いの。本の中へ本気で入ってゆけない自分を意識するのがすごく怖かった。

そういうことって、ありませんか?

それで、このまま中途半端に本と関わりながら軌道修正するのは無理と悟ったときに学校も読書もすっぱり止めて、それから十年ほど海ばかり見ていました。そしたら、なんか、少しずつ元気になってきた。海が読書のことをいろいろと教えてくれたりして。本を読み始めるときは、その中をよごさないように気をつけて、とか。読書の孤独はじっさいに本を読んでいる間だけでなく、むしろ読み終えてそれについて考えている長い時間の方にあるんだよ、とか。そしてその長い時間というのは、わたしがその本のことをすっかり忘れてしまうくらいの、ほんとうにほんとうに長い時間なんだよ、とか。

海は、わたしにその〈ほんとうに長い時間〉を与えてくれる、とても素敵な空間なのでした。

2017-08-21

雨の日製作所、について。



この、まるで小説の中に出てきそうな名前の空間のことは、もっと早くに書きたかったのですが、思いのほか時間がとれず。夏休みはルーティンが少ない分、時間の使い方が漠然とします。

さて、雨の日製作所は奈良市にあるアトリエ&ショップ。毎月初めの3日間は「晴れの日販売所」というイベントもしています。イベントの内容は、だいたいこんな感じ。毎月コンセプトが違うようです。

で、ですね。このアトリエを運営するお一人であるneniqri氏は、月一度こちらでブック・ショップを開いていまして、なんと『フラカン』をお取り扱いくださっているんですよ。ものづくりをする方たちの作品にかこまれて、とても幸せな本です。


今月のオープンは23日(水)の12時から19時まで。製作所の場所は、奈良市芝辻町4丁目6-16セイシェルビル2F(新大宮駅徒歩2分。公園に面した、赤茶色の5階建てタイルの建物)。興味をもたれた方は、下の参考記事もどうぞ。どの記事も、写真がすごく丁寧です。

2017-08-16

秋に読む扇



今朝、すっかり夏が終わってしまったとさみしく思いつつ、扇の歌を拾い読みする。この季節に読む扇って、どうしてこんなに良いんでしょう?

移香の身にしむばかりちぎるとて扇の風の行方たづねむ  藤原定家

手にならす夏の扇と思へどもただ秋風のすみかなりけり  藤原良経

盛夏不銷雪  消えぬ雪 なつのさかりも
終年無盡風  尽きぬ風 ねてもさめても
引秋生手裏  てのうちに 秋をひきよせ
藏月入懷中  ふところに 月をしまひぬ

漢詩は和漢朗詠集にある白居易「白羽扇」の部分。扇の形が違うものの、これも好きなので試訳して一緒に並べてみた。

定家の歌は、扇に残っていた恋人の香もそっと旅立ってしまったよ、との趣向が秋にぴったり。逢瀬のこと以上に、別れたのちの夢遊感に情趣が置かれている。あと良経には「秋風のすみか」の他にも斬新な歌が多いが、自分は「冬の夢のおどろきはつる曙に春のうつつのまづ見ゆるかな」が超好きすぎて、プリントゴッコ(ってもう販売終了したんですね…)を使って、金文字のポストカードを大量に刷ったことも。写真はその現物。

追記。本日16日(水)の日経新聞夕刊にインタビューが掲載されるそうです。

2017-08-12

応募について、或いは俳句地方物産展。


現在「スピカ」で野口る理さんが連載中の「ほどける冠」に、小津のインタビューが掲載されています(前編後編)。

このインタビューでは「賞への応募」についてお話したのですが、応募そのものは賞にかぎらず、投句その他ざまざまな場面であること。普段そうした活動とは縁のない自分も、何かの拍子に周囲の方に勧められたりします。

例をあげると、最近佐藤文香さんが『天の川銀河発電所』という本をまとめました。これは68年以降に生まれた総勢54名の俳句作家によるアンソロジーで、わたしはこれに応募したんですね。

このときは正直、どうしようか悩みに悩みました。というのも、周囲に勧められたその時点で、締め切りまでたったの4日しかなかったから。あと「アンソロジーとは何か?」といった案件について、それまで一度も考えたことがなかったという問題も。

とはいえ「アンソロジーとは何か?」なんて数日で結論を出せるテーマじゃない。それで「出します」とは言ったもののすぐに無理だと悟り、一時は取り止めることに。結局、締め切り直前に応募することができたのは、

「ん? アンソロジー? あれはね、デパートの地方物産展に自分のブースを出すようなものだよ。」

という、ある方の名言を耳にしたから。

うーん。目からうろこ。つまりわたしはこのシンプルな一言のお陰で、今回のアンソロジーと自分との関わり方を発見したわけです。この一言がなかったら、色んなことを考え過ぎてしまってたぶん応募を逃したと思います。そしてまた、ほんと驚いてしまうんですけど、どうやら『天の川銀河発電所』はその方の言った通り、佐藤文香さんプランニングの俳句地方物産展っぽい雰囲気の本になったみたいです(何より収録人数が)。

最後になりますが、この物産展、わたしも晴れてブースを出しました。さらっとお立ち寄りいただけますと嬉しいです。

2017-08-11

砂時計の中には


ふらんす堂通信153号に作品「共寝の時間」とエッセイ「虹の脊柱」を寄稿しています。

カイロスとクロノス共寝すれば虹  小津夜景

ええと、このところ「虹の脊柱」について数人の方からほとんど同じ感想を頂いて(もちろん内容は秘密)、改めてじぶんの文章の特徴というのを考えていたのですが、基本わたしはものを書くとき、好きな人に話しかける気分でいるんですね。

エッセイでも、ブログでも、そこは全く変わらない。

死んでからでは後悔するので、生きているその人へ向けて日々たゆみなく話しかける。いちどでも会えたことに涙しながら。もういちど会いたいと願いながら。

人生という砂時計の砂が落ち果てる前に、いつも伝えそこねてしまうことを次こそは伝えようとして。

そして話しかけるたび、その砂時計の中にはまるで世界の非情を祝福するかのように、きらきらと無数の〈無〉が煌めいているということをわたしは理解するのでした。

砂時計のあれは砂ではありません無数の0がこぼれているのよ  杉﨑恒夫

2017-08-10

ダーガー似。



ヘンリー・ダーガーの絵は画集だと色のトーンがぺたっとしている上に紙の質感も失われていて、ファンとしては少々残念なのだけれど(あの内容が、とてつもなくフラジャイルな装いをもって完成している点が全く狂気なので)、きのうモナコで紫禁城にまつわる企画を見ていたら、生のダーガーを思わせる絵を見つけた。

と、書きつつ「いや、全然似てないよ」と言われるかもって、今ちょっと心配してる。

あのね、やわらかな色の乗りや、しなやかな群衆や、写生と空想とのアンバランスぐあいがダーガーを想起させたみたい。あともうひとつ、紫禁城での人生というのは究極の『非現実の王国』だよねって、会場を歩きながらふっと思ったので。そんなわけです。ごめんね、あんまり深くとらないで。ラヴ。

2017-08-09

カーのおはなし。



わたしはクラシック・カーどころか普通のカーも知らず、さらには免許も持っていないんですが、この手の愛好家というのは少なくないみたいで、周囲にも地元の大会に出場している人がいます。

へえ、どこのコースを走るの?と尋ねると、速さを競うのではなく「どれだけオリジナルの状態で保存しているか」を競い合うんだそう。つい先日の大会の副賞は、優勝が旅行券千ユーロ(約十二万円)で、準優勝がモナコグランプリの観戦チケット。

詳しく聞くと「うそ! チケットの方がレアじゃん!」と思うような話。とはいえこの手の大会に出て、なおかつこの近辺に住む人にとって、モナコグランプリ観戦は日常すぎるため感慨がないのかもしれません。豪華客船やホテルの部屋からコースを見下ろそうとすると異次元の値段になりますが、道端の席
(モナコのレースは公道を走る)なら水族館の入場料と同じくらいからあるそうなので。

春の夜の地図を灯して俺の車(カー)  西原天気