2016-12-30

薔薇色の金玉





山本勝之のあの凄いの、あれ、なんて言ったかな…と思いながら

「薔薇色 金玉」

で検索してみたら、すぐ見つかった。

街角に薔薇色の狼の金玉揺れる  山本勝之

素寒貧な男の色気と、狂気と、年の暮れ感。

2016-12-29

そしてさよならした「べし」



≫ べしシリーズ (1) (2) (3)

先日のブログの堀田季何さんは『フラワーズ・カンフー』の選句に影響を与えた数少ない一人。どういうことかというと、この本のあとがきには「第2回攝津賞から現在までの2年半分の作品をまとめた」と書いてあるのですが、実は一句だけ例外があって、それが週刊俳句の「10句競作」に出した

発語して光をにごす須臾となる  小津夜景

というもの。これ、俗にいうわたしの処女作なんですけれど、当時この句を堀田さんが褒めてくださったんですね。軽く。で、わたしはそのことをずっと覚えていて、この方が良しというのなら心配ないだろうと、句集を編むとき記念にこっそり入れたというわけ。さらに書くと、堀田さんが褒めてくださった別の句には

ヴァカンスやすべからく季節崩(く)ゆるべし  小津夜景

というのもあった。はい。べし、でございます。この句は「10句競作」の選者でさいきん『虎の夜食』を上梓した中村安伸さんにも採られたので、ふーん、こうゆうノリってありなんだね、と2度確認できた。ところが『フラワーズ・カンフー』の編集をはじめてみたらきのうの「べしをどうしても入集させる必要があることが判明してしまい、あっさり選外に。

ええと、とかくこの世はままならない、というおはなしでした。

2016-12-28

べしの調理



いままで「べし」の話を数回書いた。この語は音にキレがあって好きなんだけど、使い方をまちがうとアホっぽくなっちゃうので気をつけなきゃいけない。以前このブログに載せたサ行折り句の

さるびあに痺れる指(および)すべからく世界は意味にそびえたつべし

はまさにそう。いささか女性的な陶酔がある。これ、どうかんがえても「指」がダメなんだよね。やらしくて、人妻っぽい。たぶんこの一語から解体にとりかかれば、この歌は生まれ変わるだろう。こんな簡単なこと書いた瞬間に気づくべきなのに、脇が甘いなあとがっかりする。

さて、気を取り直して、もしも今ここで、あらためて「べし」を調理するとしたらどうするか? 

えっとですね、まず「べし」で軽い2句切れをつくりたい。で、そのうしろは「べし」の熱を冷ますために一字空ける。そして後半は長めの名詞をつかって、結句を句跨がりにする。というのも「べし」を入れると2句目には意味的な圧力がかかるので、3句目以降はその反動というか均衡をはかるために、ゆったりした尺で空気を動かしたいんである。たとえばこんな感じで。

惑星に齢あるべし 余白なきスタニスワフ・レムの日記よ

言葉と意味はテキトー。とりあえず各分節の頭韻脚韻および強拍弱拍のバランスを見ながら、音の動きだけざっと割り付けてみた(4句目のスタニスワフが6音なのはご愛嬌で)。

どうでしょう? 最初の歌の「べし」と比較して、より節度が増したような気がするのだけれど。

なんにせよ、こうした音の配置を考えるときって、絵を描いたり、献立を考えたり、盛りつけをしたりするのとまったく同じ愉快を、わたしは感じているのですよ。今日言いたいのは、そのこと。

そびゆべし囀はわが死後の木に  小津夜景

2016-12-27

カモメと天才





このあいだ福島泰樹の〈あおぞらにトレンチコート羽撃けよ寺山修司さびしきかもめ〉を引用したのは、実はカモメの話をしたかったのではなく堀田季何の

underdog(まけいぬ)になるためだけに登場し姫川亞弓まさしく天才  堀⽥季何 (*姫は正字)

って膝をばんばん打ちたくなる歌だよね、と言うつもりだった。

ちなみにこれらの歌の共通点は、下の句の7・7が《人名+その人の性》になっていること。それだけ。

堀⽥の歌、姫川亞弓の身を切るような真剣勝負の人生とその孤独とを、かくも簡潔に言い当てたところが凄い。まさしく天才、というど直球の決めゼリフもいい。芸術至上主義者であることを許された、神に選ばれし賤民亞弓。泣ける。

性が天才であることだなんて、またそれゆえにunderdog(まけいぬ)だなんて、こんな大胆なマニフェストを結句体現止めでキメちゃうんだから、ほんと読むたびに「うふ♡」って感じ。

2016-12-26

反スイート論、そして絶唱。



むかし『塵風』5号で佐山哲郎の

  アンリ・カルティエ=ブレッソン
決定的瞬間といふ宣託を遺して朝の螺旋階段  佐山哲郎

という歌と出会ったとき、即座に
野枝さんよ虐殺エロス脚細く光りて冬の螺旋階段  福島泰樹

を思い出した。どちらも素敵な作品である。

福島と比べてみると、佐山の歌は音の動きが伸びやかで、描かれている光景もキラキラしてこの上なくロマンティックなのに、少しも甘くなく、キレがある。それは言葉のスピードが速いからだ。しかも最後の最後まで速度が落ちない。結句で飛躍しようとせず、あくまで直球を投げ込まれた感じ。痺れる。

ちなみに、さいきん多いタイプの歌はシンパシー系もワンダー系もスイートな点では同じだが、そうなってしまうのは言葉の速度が遅いことに起因しているのだろう、とおもう(例外については、近日中に書く)。

それはそうと今日ツイッターを見ていたら、のなあかりという人に

「男は尻を出してサンバを踊ることはできない。だから、褌を履いて冬の真水に入るんだ。」

という名言があることを知った。この名言をつきつめてゆけば、すなわち次の絶唱へとコンヴァージョンされるにちがいない。

なにも莫いなにも無ければ秋を売る男と成りて我は候  福島泰樹

2016-12-25

皿の上の生命体





ケーキで大切なのはちゃんと甘いこと。
そして見た目はユルい方が、絶対に可愛いらしい。
へなちょこで、だらしないのが。
地球外生命体っぽい空気を放っていたら、さらに言うことなしである。

つまり【スイート&ルーズ&エイリアン】が素敵なケーキの鉄則だ(おそらく女性という生命体も)。

2016-12-24

聖夜にまつわる真理





近年知った真理のひとつに、

年をとると、クリスマスも平日も、胃袋の大きさは同じ。

というのがある。

つまりクリスマスだからと鶏をまるごと購入してオーブンで焼いた場合、その後3食は鶏がつづくはめになるわけだ。

鶏一羽はオーガニックのスーパーで1400円程度。一食あたりで計算して350円。それにつけあわせを足すと、おおよそ夫婦で800円くらいの晩ごはんになる。クリスマスをしないというなら理解できるが、とりあえずなにかしらやってこれしか食べられないのだから、この真理のあまりの堅牢さに戦慄をおぼえないではいられない。

2016-12-23

朝の白熊、ユーモアの外で(5)




朝8時。停留所の背後にひろがる巨大なショー・ウィンドーの中で、白熊たちが、ひどくゆっくりと動いていた。度を超してゆっくりなため、角度が悪いと小さな熊たちが軒並み瀕死状態にみえる。さらに大きな熊の放心した目。怖い。

話は変わって、きのうの「言語の学習」にひとつ付記。この連作はタイトルから想像されるとおり、ことばあそびという細部が主調に据えられている。

つまり浮き立つナンセンスの底にリアルが沈み広がっている、という構成だ。

この構成を見たときわたしは、芥川也寸志が「ショパンの音楽は装飾音こそ命であり、細部が主調たる力なのだ」と書いていたのを、ぼんやり思い出した。

さらに余談。ショパンはサンソン・フランソワが安心する。理由は幼少の頃、この人のレコードで育ったから。業界が彼をどのように評しているのかは知らないけれど、わたしにとって彼の演奏は家庭の匂いそのものである。

2016-12-22

ユーモアの外で(4)



四ッ谷龍『夢想の大地におがたまの花が降る』の「言語の学習」は東北地震の被災地を訪れた連作である。

この連作の特徴は「震災」というリアルな文脈の中にナンセンスな句がたっぷりと挿入されていること。深く傷を負った風景が安易な癒しへと流れてゆかないのは、この構成に負うところが大きい。

〈重苦しく沈む主題〉と〈軽やかに浮く細部〉とを織り合わせるというのは映画では珍しくない手法だ。この〈細部〉があってこそ、目の前にひろがる現実の非現実感がきわだちもする。この連作においても、いきおい視覚重視になりがちな震災地への思い入れが、聴覚重視のことばあそびの魔法によって、そのつどリセットされるような感じがある。

なななんとなんばんぎせるなんせんす   四ッ谷龍
仮の家また仮の家また躑躅   〃

「なななんと」といったことばあそびが「仮の家」のような現実的光景に対し徹底的に無関心を装うさまはわたしをとても安堵させる。なぜならナンセンスの精神とは、現実を物語化することへの最大級の抵抗だから。福島は物語にされてはならない。言うまでもなく「フクシマ忌」なる季語として「浄化」されることも。

2016-12-21

ベン・ヴォーチェの書




さっき近所を歩いていたら、前方に二人組のおじいさんが、いた。片方の背中にはベン・ヴォーチェの書で、親分(the boss)、と書かれている。

体つきから想像して、ベン本人のような気が、しないでもない。

こういうのは真実を知ってしまうと写真をアップできなくなるので、わたしは彼らを追い越さぬよう気をつけながら、この次の道を左折したのだった。

ベン・ヴォーチェの説明はこちら。本人のサイトはクリックするところが無数にあって超ラヴリー。

2016-12-20

恐竜みたいで、かわいい。





カモメ。大好きな鳥だ。それでも食事のときのあの本性を見てしまうと、あまりにロマンティックに捉えられがちだとは、思う。とてもじゃないが、

かもめ来よ天金の書をひらくたび  三橋敏雄

とか、

あおぞらにトレンチコート羽撃けよ寺山修司さびしきかもめ  福島泰樹

てな感じでは、ない。これを読んで、なんのことかわからない人。そういう人は「カモメ 丸呑み」で検索すればカモメの食事風景が見られる。もっとも閲覧注意画像すぎてまったくおすすめできない。むしろ、絶対に検索しないことを、おすすめする。

写真の鳥はカモメじゃなく、公園の、飼いならされた鳥。小さな恐竜みたい。

2016-12-19

ケーキといふもの





ケーキといふもの。外では食べるし、家でもつくる。しかしわざわざ外へ買いに出かけ、あれこれ悩んで選び、家へ戻ってさあ食べよう、というステップをふむのは年にいちどあるかないか。いや2年にいちどくらいか。いやそれも嘘だ。よく考えてみるとフランスに来て最初の10年はいちどもなかった。そんなだから、家の中に、めったにない、小さなきらきらしたもの(註・ケーキのこと)がやってきた日には大変なさわぎになる。お茶は何にするか、とか、音楽はどうしよう、とか。とうぜん写真の記録も残しておく。家であることがすぐわかるよう、左利きのしつらえで。

2016-12-18

ユーモアの外で(3) 一本の川と墓石



四ッ谷龍『夢想の大地におがたまの花が降る』における2番目の連作「大地の全表面」は、作者が散歩中にとりとめもなく考えた空想まじりの光景を描いている。

散歩者は繭になったり時計になったり  四ッ谷龍

その考えは春の地震にはじまり、グラジオラスのこと、一本の川のこと、枯野人や縄文人のことといった具合にこれといった脈絡なくつづく。なかでも一本の川をめぐる随想は伸びやかで自由闊達なロマン主義的情感をいっぱいに満たしていて心地よい。

君は一本の川だ春の音(おと)秋の音つらね  四ッ谷龍
君は一本の川だもう一つの川がある
君は一本の川だとても新しい流れ
君は一本の川だ崖ふかくしみとおる
君は一本の川だ子供時代を流れ
君は一本の川だ君自身を呑む流れ
君は一本の川だ亡き人もその一部

生命の讃歌。屈託のない筆遣い。と思いきや、読者は最後から2番目の連作「青山の墓」まで読み進んだとき、これらが決して単純な人間的精神の解放ではなかった事実を知ることになる。

君は墓石小田急線に乗り西へ   四ッ谷龍
君は墓石アイスマンゴージュース吸う
君は墓石殖えて殖えて町中が墓
君は墓石愛を知らない夏の石
君は墓石夜はゴトゴト笑う石
君は墓石元はさまよう星のかけら

連作「青山の墓」は配置的にも内容的にも「大地の全表面」と対をなしている(もしかすると「君は一本の川だ〈もう一つの川〉がある」という表現なども、この句集の対位法的性格を示唆しているのかもしれない)。この「君は一本の川」にあふれるロマン主義的情感が「君は墓石」と2声のフーガを形づくることで理知的な抑制を受けているといった特徴は、『夢想の大地におがたまの花が降る』が読者に与える〈ひっそりと閉じた感覚〉のひみつを解く鍵のひとつとなるだろう。

髯侯爵鍋をパンツとして穿きぬ  四ッ谷龍

2016-12-17

ユーモアの外で(2)「参加」



四ッ谷龍『夢想の大地におがたまの花が降る』におけることばあそびがいわゆる〈ユーモア〉や〈ヒューマニズム〉から遠いものである理由は、それが人間の尺度ではないものへの供物だからである。

そのたわむれはときに天使的(形而上学的)にも感じられるが、これについては四ッ谷が近年とりくんでいる数学やフーガの研究が関係していそうに思う。

しかし今日書くのはそれではない。本書の詩序にあたる連作「参加」のことだ。

うすごろもはらりといらんいらんの木  四ッ谷龍
亡き人の呼吸(いき)も聞こゆる森林浴
大空を鳩にあずけて薔薇づくり
露の世にきりりと弾けりヴァイオリン
ティボー弾く古き音色へ参加しぬ

ここに描かれた情景は、ことあるごとにふりかえり、ていねいに耕された記憶のような〈濃い日陰特有の親しみ〉を読者に感じさせる。うすごろもの軽やかなうごきを介して香りくる、憂いをそっと癒す植物いらんいらん。大空を鳩にあずけ(すなわち空に想いを馳せることなく)土をいじり額に汗する作者。露の世に聴くティボーはカザルスやコルトーとあわせたベートーヴェンの「大公」だととても嬉しい。これらの句が人と生活をわかちあう歓びを感じさせるがゆえに、ティボーの演奏もごく少人数の、気の知れた仲間とのそれであってほしいのだ。(だが彼らはいまどこにいるのだろう?)

子供等の脱いだ靴へと参加しぬ  四ッ谷龍
ゆうぐれのゆううつの眼へ参加しぬ
ガラス器の花の模様に参加しぬ
白鳩の冷やかな瞳に参加しぬ

これらのことばには、世界の深い影がものうげに揺れかかっている。作者はじぶんを取り囲む存在にあいさつし、みずからを投げかけつづける。おそらく、ここに存在しないものが、ここに存在するものを介して、彼に語りかけやまないために。

そして、やがて、私たちがこの世を去っていったら、
残った者たちが、畠のはずれの、あの青い境界石に座るであろう。
また、彼らが仕事から戻って、テーブルに着くとき  
どのテーブルも、水差しの陶器も、語りかけるであろう、
小屋の壁の一つ一つの校木(あぜき)が、語りかけるであろう。
(ジョナス・メカス「古きものは、雨の音」)

2016-12-16

〈ユーモア〉の外で





四ッ谷龍『夢想の大地におがたまの花が降る』はことば遊びにあふれている。

そして、そこには〈ユーモア〉がない。

この句集に見られることばのたわむれは、おきざりにされた子どものはてしない一人遊びのようにさみしい。つんでは崩れ、つんでは崩れすることばを、いつまでも無言でつみ直しているようにさみしい。

花々や昆虫、化石、そして数学などさまざまな美しい光景を映しだすとき、それらの句は少しうれしそうにみえる。もっとも句がうれしそうなのと作者がうれしいのとは全く別の話で、作者はこの世の愉快をみずから味わうのではなく、向こう側の世界へ供物として捧げてしまうのだ  対象に没頭しているようで、その実なにも見ていない雰囲気を漂わせながら。

目に見える場所に、彼の見たいものが、きっとないのだろう。

この句集は〈にんげんのたましい〉には届かない世界を記録しようとしたという意味で、正しく〈ユーモア〉や〈ユマニスム〉の外にある。

おがたまの枝手放せば花は宙(そら)   四ッ谷龍

2016-12-15

ゆくヒトデ。




子供のころ住んでいた町の近くには北大水産学部がナワバリとしていた研究所があって、そこにおまけみたいな水族館がついていた。水族館とは名ばかりの、辺鄙な魚市場みたいな空間である。入場料は百円。お金をわたすとおにいさんが、はい、とジュースを一本くれる。つまりここを訪れると数十円国家から恵んでもらえるというわけだ。しかしこのシステムを活用する者はほとんど存在しないらしく、この水族館でわたしたち家族は他人を見かけたことがなかった(きっとホンモノの水族館に行ってしまうのだろう)。

この場所で、わたしはヒトデのかわいらしさを知った。とくにウラ側の、キモイ、といわれる部分に底知れない魅力がある。彼らはウラ側のどまんなかに口を有しているのだが、その水族館では人も敵もいないせいでリラックスしているのか、よくこの口になにかしら咥え込んでいた。こんぶ、とか。

くちびるをきゅっとむすび、その端からこんぶをぺろーんと垂らしたまま遊んでいると、たまにこんぶがじぶんに巻きついてしまう。そんなときはくねくねと五肢をくねらせてこんぶをほどく。その緊縛をほどくさまには知恵の輪をゆっくり解くような哲人風情があって、なんだかとても、果てしなく遠いいきもののように思える。

ゆきなさい海星に生まれたのだから  小津夜景

2016-12-14

生活と労働




3年くらい前まで、生活している、という実感をもったことがなかった。さいきんは少しわかってきたけれど、以前は人生に《ルーティン》を感じたことがなかったのである。

面白いのが、同居人も同じらしいこと。結婚してから、ずっと旅をしている感じ。結婚して、新婚旅行に出て、そのまま家に帰れなくなった心持ちというのがぴったりだ。

同居人は生活だけでなく労働の実感も湧いたことがないらしい。そうとう紆余曲折の多い人で、世間で言うところの社会経験も豊富なのだけれど。それなのに、わたしが「お仕事ごくろうさま」とねぎらうと「そういうのやめて。僕、いままでいちども自分が『働いてる』って思ったことないから」と言う。かならず。

無政府の夢から覚めてばななの木  長谷川裕

2016-12-13

すべての見えない光





渚なるものが世界にあるらしい  川合大祐

そのむかし、人と海であそんでいて渚のはなしになった。その人の言うには、渚とは「波の先っぽと空気とのふれあうあわい」のことらしいだから、人は渚に立つことはできないのだ、ともその人は言った。

その《立つことのできない場所》が、みんな大好き。その、たぶん此処、としてしか捉えることのできない場所が。

(目を)(ひらけ)(世界は)たぶん(うつくしい)  川合大祐

2016-12-12

『スロー・リバー』と『ピンヒール・カンフー』


【おしらせ】この月曜から一週間、川柳スープレックスで川合大祐『スロー・リバー』を読むことになりました。深夜番組ゆえ毎回つぶやき程度のことしか言いませんが、よろしければ遊びにいらしてください。

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きのうのつづき。客観不在のモンタージュは嫌い、色気のない教本的格闘もつまらない、やはり映画なのだし多少はトリック込みの演劇的な掛け合いがないとね、ということでアクションの動作設計は武術と舞踊両方の造詣がある人だと嬉しい。各シークエンスを音楽のメロディーラインと捉え、その上で見せ場をデザインしてくれるとなお言うことなしである。

あとは身体という素材を活かしたリズム感と華。それには呼吸が重要だ。

呼吸といえば、ジャンルは異なるけれど、ヤニス・マーシャルの振付の呼吸は悪くないと思う。音楽だけでなく韻律にもキメの型をひょいひょい《乗せて》くる感じで、しかもそれがいちいちヴォーグ的。カンフーの振付もセンスの良い人がやると、必ずこんな風に技を《乗せて》くる。というか、よく考えてみるとこの人だって、あれだけ頻繁に凶器として使用されるピンヒール使いの達人なのだから紛うことなき立派なクンファーなのだ。



スパイス・ガールズの曲に振付をつけて踊ったヴィデオはパリジャンっぽくみえるが、実際はコート・ダジュールの田舎出身。センスとパワーに溢れているし、これが香港だったら『ピンヒール・カンフー』なる映画がすぐさま製作・公開されることだろう。

2016-12-11

パルクールについて(2)


きのうのつづき。先日『チョコレート・ファイター』の話が出たとき、その人が一緒に挙げていたのがトニー・ジャーの『マッハ!!!』。


武術ができるという点で『チョコレート・ファイター』より好み。あとパルクールの上に香港系カンフー映画(京劇)の動作設計を100%かぶせた演出も、春秋戯劇学校出身者のコレオグラフィーを見て育った世代としては嬉しい。動き全体を映すことを前提とした上で見所を練った絵コンテと、シークエンスごとの充分な長回し。こういうの大好き。

それにしてもトニー・ジャーは監督に恵まれている。総じてアクション・シーンというのはテンポと雰囲気をつくるために無惨に切り刻まれるのが常だ。欧米のアクション・シーンは殊に断片集積的で、技のアップと役者のアッブを交互につないだ客観不在のモンタージュばかり。『フルスロットル』にしたって、あろうことかパルクールをぶったぎっちゃうんである。対象の真の動きを観客に理解させないために(としか思えない)。そういうのは全くノレない。

トニー・ジャーの話に戻って『トム・ヤム・クン!』になると格闘メソッドの教本ヴィデオか!?と思うくらいカメラをしっかり引いて基本の技をいくつも連続で見せていて、もはや動作設計の概念が違う方向へ行ってしまっている。いや、延々と見せている技が軍隊の近接格闘術だったりするから、本気で教本用の演武なのかもしれない。しかしなんにせよこれが動作設計界の新機軸であることは明白。色気のないものに欲情するタイプの人にはたまらないのだろうな、と思う。

2016-12-10

パルクールについて(1)


フランスのパルクールの歴史は古いが、あれだけ芸術的なのにもかかわらず人に知られない時間が長かったのはどうしてかを考えてみると、やはり攻撃体系を持たないことが最大のネックだったのだろう。その点、マドンナのHungUpやJumpといったプロモーション・ヴィデオは一般の認知度に大きく貢献して本当にエラい。

先日ある人と話していて、そのパルクールの話がちらっと話題にのぼった。もっともタイ映画の『チョコレートファイター』が好き♡とかその程度の内容なのだが、その時にジェローム・シンプソンのパルクールを使ったタッチダウンに触れなかったのはわれながら手抜かりだったと思う。

この手のスポーツにパルクールが導入されたら、ディフェンスの基本体系がコペルニクス的に変化することだろう。速攻でその日がやってきて欲しい。

2016-12-09

《まどろみ》と《めざめ》とのあいだに



先日「べけれ」の話を書く際、なにか適当な例歌があるかもと思い森岡貞香に当たってみた。あの紆曲に身をくねらせるような文体ならば、のどごしの悪そうな「べけれ」もぐいぐい呑み込んじゃうんでは?と期待したのだ。

で、結局ちょうどよい歌はなかったのだが、その代わりこんな歌に行き当たった。

椅子に居てまどろめるまを何も見ず覺めてののちに厨に出でぬ   森岡貞香

まどろみの間は何も見なかった、という表現が妙にシュール。さらに《醒めて後、出でぬる廚》が、本人の覚えていない夢の残存をいまだ引きずっている風で不気味。森岡は文体だけでなく時空の構成法も眩惑的だなあと感心する。一方これとよく似た歌に

椅子にゐてまどろみし後水差しに水あるごときよろこびに逢ふ   玉城徹

というのがある。《いまここ》に対面する人間は線条的時間を解さないから、《まどろみの世界》と《めざめの世界》にさしたる違いはない。ただ人間は《ループする現在》の眩しさに目をしばたいているに過ぎないのだ。

2016-12-08

浮遊感覚



カマルグ地方のつづき。

空ばかり撮る映画監督といえばアルベール・ラモリス。彼はヘリコプターからの転落でその48年の生涯を終えたほどの空好き。

『赤い風船』『素晴らしい風船旅行』『フィフィ大空をゆく』など、それぞれに異なる浮遊感覚を巧みに表現したラモリスですが、そんな彼に『白い馬』という作品があります。主人公は《白いたてがみ》と呼ばれる野生の白馬。ストーリーは「誰にも所有されない気高い《白いたてがみ》は、仲間の馬たちを率いて、自分達を乱獲しようとする人間に抵抗する生活を送っていました。そんなある日一人の少年と出会い、いつのまにか心通わせてゆくようになります。ところが…」うんぬん。で、この舞台となるのが南仏カマルグの湿地帯なんです。

カマルグはその特殊な動物相・植物相を保護するため、1927年に13,117ヘクタール分が国立自然保護地域に指定されているそう(wiki情報)。

雄大なスケールの湿地帯を白馬が駆けぬけるさまはとても印象的。そして、あ、やっぱり浮遊感覚の人、と思います。

2016-12-07

スーパーのお米



イタリア人やスペイン人がお米を食べるのは有名ですが、南フランスにも歴史は浅いもののカマルグという地名の一大稲作地帯があります。

わたしがふだん通っている食料品店では常時20〜30種類のお米が売られており、なかでも気に入っているのがフランス原産の黒米。手に取って眺めると、これでもかと品種改良されたあじけない米とは違い、色や形にいまだ素朴な風雅が残っていて、古代米ってこんなだったのかな、なんて空想したりも。

上の写真は近所の食料品店。下はカマルグでとれたお米。

2016-12-05

「べし」の技法(1)



もし今これを読んでいるのが俳人なら、このタイトルから正岡子規の〈鶏頭の十四五本もありぬべし〉をまずもって想像するのではないかと思う。だが本日の「べし」はそれではない。

虫の音や我ら遠方より来たる
月犬(白土三平『忍者武芸帖影丸伝』)
秋思に沈むケムンパスべし
なむ(赤塚不二夫『もーれつア太郎』)

ウラハイで見つけた五吟マンガ歌仙「虫の音の巻」から冒頭を引用。脇句「秋思に沈むケムンパスべし」の「べし」が素晴らしい。ふつう「べし」は活用語につくが、ここはケムンパスの体からいきなり「べし」が生えた方が愛らしいにきまっている。かくしてもはやこの「べし」は田島健一の「ぽ」と同じく切れ字の域に達してしまったわけだが、同じ作者に「べし」をふつうにキャラとして使用した句もあって、これも腹が立つくらいかわいい。

万緑やけむんぱすよりべしが好き  佐山哲郎

2016-12-04

連句と『オルガン』



最近、連句への興味が強くなりすぎて困っている。きっかけは『川柳時評』で小池正博さんが野間幸恵さんの〈琴線は鳥の部分を脱いでゆく〉という俳句の構造を、

琴線はわが故郷の寒椿
鳥の部品を包む冬麗
うすもののように記憶を脱いでゆく

と、連句風に再構成してみせていたこと。この三句の渡りを見て、ああどこかの隠れ家でこんな大人のエレガンスが営まれているのか、と恋するような気持ちになった。さらにはこちらの書誌一覧も読んでしまったために、これは下手に近づいたらやばいかも、俳句を書く時間がなくなっちゃう…と思いながらびくびく暮らしているのである。そんなところへ『オルガン』7号が届いた。開いてみると、なんと連句の特集だ。

もっとも、幸か不幸か、この号で巻かれていた「オン座六句」にはじぶん好みの快楽はなかった。こっちはぐっと背伸びして遊びたいが為の連句なので、過度の簡略化は残念以外のなにものでもない。さらにめくるめく旅の享楽にも浸りたいゆえ、場面展開はより鮮やかな方がいい。自由律の導入は斬新でとても惹かれるものの、気ままの愉悦をより深く味わうためにもそれ以外の連ではもっとマゾヒストでいたい。こんなことを書くとそれなりに連句に通じているみたいだが、実は2度ほど参加したことがあるだけで(そのひとつがこちら)ルールもよく知らない。だからこの所感は、今回巻かれた「オン座六句」の文字並びに恋できるかできないか、ええ、ただそれだけに拠っているのでした。

ところで今号の『オルガン』、俳人たちの作品の気分がすごく似ている。ふつう「似ている」というと資質・方法・趣味他なんらかの要素がカブっていることを指すのだろうが、彼らの場合はそういうのではない。まるで大きな模造紙を床に敷きつめて、みんなで愉しく絵を描いて遊んでいるうちにお互いの線がまざってしまっていた、という似方である。それぞれの確固たる流儀で書かれた絵の中に、しかし他人のうっかりつけた手形がそのままになっている、というか。あまりに仲が良さそうで、ちょっとびびる。

2016-12-03

「なう」の歌と「いろは」歌



このタイトルだと越智友亮の〈焼そばのソースが濃くて花火なう〉を思い出す人もいるかもしれないが、本日の「なう」はそっちでなく古典の方。『閑吟集』に

後影(うしろかげ)を見んとすれば 霧がなう 朝霧が

という歌謡がある。つねづねこの「なう」が良いなあと思っていたのだが、あるとき小池純代の

うつくしう 
噓をつくなう 
唄うなう 
うい奴ぢや さう
裏梅のやう

という「なう」を知った。さらに眺めると各句の頭韻と脚韻が「う」で揃っている。こういった書き方もあるのかと思い、さっそく「いろはうた・いろはうた」の沓冠折句(くつかぶりおりく)を閑吟集風にこしらえてみた(なう、の意味が変わってしまったが)。

言ひかけた論より、見なう、花々は虚(うろ)よいざうろたへな残命  小津夜景

二回目の「いろはうた」は結句側から倒立で仕込んである。どうして「いろはうた」という言葉を選んだのかというと、これを書いたとき小池純代の「いろは歌」が念頭にあったから。

あけのちきりに   明けの契りに
すむこゑも     澄む聲も
いさやおほえぬ   いさや覺えぬ
まとろみへ     微睡へ

よせゐるふねは   寄せゐる舟は
そらゆめを     空夢を
うたひつくして   唄ひつくして
わかれなん     分れなん

うたかたを寄せ集めたような美しい歌。だが言葉はいつもこうあってくれるわけでなく、ときにこの世界をはっきりと名指す。無論その、はっきり、とてもうたかたなのだけれど。

2016-12-02

旅立ちの音



高校生の頃、北海道の実家に帰るための飛行機のチケットがとれず(ちょうど冬の観光シーズンだった)いちどだけ上野発札幌行の寝台特急「北斗星」に乗ったことがある。

当時の「北斗星」は上野駅を発つとき、プラットフォームにいる駅員が大太鼓を連打して乗客を見送ってくれた。ゆっくりと力強く、なんども、乗客の耳に聞こえなくなるまで。大太鼓は、ここから始まる16時間の旅のはなむけだ。

わたしの人生で大太鼓鳴らすひとよ何故いま連打するのだろうか  柳谷あゆみ

わたしがこの歌から最初に想起したのは、

遠い太鼓に誘われて
私は長い旅に出た
古い外套に身を包み
すべてを後に残して

という村上春樹『遠い太鼓』の巻頭に掲げられているトルコの古い唄。掲歌が『ダマスカスへ行く 前・後・途中』という歌集に入っていることを知るやいなやますますこの想起は強められ、ああそうだ、船の出港のとき銅鑼が鳴らされるように、砂の海においても旅のいざないは《鳴りもの》という形で幻影化されるのがもっともふさわしい、と思った。

2016-12-01

坂本直行のスケッチブック



ここ2日ばかりの記事が伴侶(京都人)に評判が悪い。困ったものである。あまりに評判が悪いので、わざともう一回、六花亭の話を書くことにした。

わたしの育った家では六花亭の包装紙を描いている山岳画家・坂本直行の絵が飾られていた。わたしもいつか機会があれば飾ろうと思い、とりあえず何冊か絵葉書のセットを手元に保管している。こういった思いつきも、関西でつんだナショナリスト修行のたまものである。

坂本直行は龍馬を輩出した土佐坂本家の八代目当主。龍馬から見ると甥の孫にあたる。北大で農業を学び、東京で温室園芸に携わり、六花亭の包装紙を描いているという経歴のせいで、地元北海道でも植物画家のように思われている直行だが、中札内にある彼の記念館や札幌にある松山額縁店のサイトで、山のスケッチブックを眺めることができる(画像はすべて松山額縁店のサイトから借用)。


また数百冊あった直行のスケッチブックの内136冊は北大山岳部に寄贈されており、2534点の絵がこちらでアーカイヴ化されている。


スケッチブックは大部分が着色され、知的な線と明快な色が特徴。日記風に文字が入っているのも多く、どれだけ描いても描き飽きないほど山が好きなのがわかる。折よく北海道大学総合博物館では2016年11月4から2017年1月9日の間、坂本直行生誕110年記念企画として「直行さんのスケッチブック」展を行っているようだ。