2016-10-17

そういえば、への愛



画家の長谷川潾二郎に「現実とは精巧に造られた夢である」という美しい言葉がありますが、ついさっきわたしが思ったのは、夢を記すのにもっとも適した形式とは日記なのではないか、といったことでした。

「日記こそが自分の表現形式である」と語るジョナス・メカスのフィルムは、日々の「記録」であるにも関わらず、浅い眠りをみたす夢の瓦礫めいた印象を人に与えます。いってみれば「記憶」にさざなむ風景として「いま・ここ」に立ち会っている、といった距離感なんですね彼と日常との関係って。

で、メカスはこの関係を、思い出すことも語ることも止められず、ひっきりなしに震えつづける舌(ラング)のような質感のソニマージュとして表象するわけですが、今日のわたしはこうした舌の運動を《そういえば、への愛》と呼んでみたいんです。

つまり「いま・ここ」を糧として「いま・ここ」ならざる夢を生きつづける舌。あるいは日々の暮らしと戯れつつ、そのつど世界を重層的な非決定の状態へと導いてゆく舌。こういったものが《そういえば、への愛》というわけです。たぶん。