2016-10-31

カモメの駆除法





武術仲間に鳶をやっている男の子がいるのだが、彼の言うには、この町ではカモメは害鳥とみなされ、ときに駆除対象となっているらしい。なぜそんなことを彼が教えてくれたのかというと、カモメの駆除が鳶の仕事だからである。彼らは行政から依頼されたアパートの屋根裏に入って、カモメの卵をさがしだす。そして卵が見つかれば、それに青い絵の具を塗る。これで仕事はおしまい。青い絵の具を塗られた卵はけっして孵化しないのだ。どうしてかは分からないけれど。

上の話は、数年前に聞いたもの。現在は卵の探索はドローンの仕事になりつつある。見つけた卵にはどろどろした透明のゼリーを噴射するそうだ。

2016-10-29

旧市街を歩く





我が家はめったに外食をしない家庭なんですが、秋だけは計画的に食べ歩きをします。理由はこの季節、日本から遊びに来る知人が多いから。

知人が来たら一度くらいはレストランに案内することになる。で、案内するからにはやっぱり喜んでもらいたい。ところがクチコミも、地元の人の紹介もアテにならない(シェフやパロトンが変わったりして)という苦い経験をなんどもし、これはちゃんと自分たちでお金を払って下調べをしなければダメだ、と思い知ったわけです。

あったらいいなと思うのは、ひっそりとした裏通りにある極上の店。そんな空間をさがして旧市街をぶらぶらと散歩。一軒一軒つぶさに観察しつつ。

短夜や茶碗で飲んで白ワイン   長嶋有


2016-10-27

【告知】しおたまこ個展「ひとり文化祭!」





秋晴れよろしきこの季節、句集『フラワーズ・カンフー』の装画を担当してくださったイラストレーターのしおたまこさんが、来月11月12日より表参道のギャラリーニイクで文化祭(個展)を開催します。

野性的でありつつ繊細という、たいへん魅力的なしおたまワールド。会場では彼女のイラストレーションをのせて制作したワンピース、ニットストールから、カミモノ、布雑貨、こけしまで、さまざまな作品&商品の展示・販売が行われます。ひっそり『フラカン』も紛れ込む予定です。

2016-10-26

雨のゆうぐれ




海にいると音のない時というものが存在しない。潮騒でぴったりと耳が蓋がれてしまわない限り。潮騒を前にすると、こころのつぶやきは大抵掻き消される。そしてただ肺で息をするばかりの生き物になる。

老いながら色づく家を過ぎるときあなたにもある一対の肺  佐藤弓生

2016-10-25

俳句と数学



https://zieta.pl


少し前の日記で小池正博の三句の渡り理論に触れたときはすっかり忘れていたのだけれど、そのあと「MATH POWER 2016」の数学俳句イヴェントがあったせいで『連歌』の著者であるジャック・ルーボーがブルバキ派の数学者でもあったことを思い出した。

和歌、連歌、俳諧に対するルーボーの興味はそもそも数学的なきっかけに始まっている。なんでも彼は、それらが5、7、17、31といった素数から構成されている点に《詩に内包される美の秘密》が隠されているのでは、と考えたらしい。出会いって、ほんとうに人それぞれだ。

俳句----そのつど多彩なヴァリエーションとして出現しつつ、その背後にどれも等しい素数のスケールを秘めた音楽。その単純な反復性を愛しみながら、広々としたことばの世界に思うがままの、あるいは思いがけない点景を描く、その楽しさ。

おがたまの咲く土地土地を印す地図  四ッ谷龍

2016-10-24

どろだんご俳句への道、そして休暇小屋。





手仕事のぬくもりとユーモアの感じられるル・コルビュジエの仕事は《どろだんご俳句》を考える上できわめて参考になるアーキテクチャー感覚です。

この《どろだんご俳句》というのは、可塑性を内包した状態をもって一句を完成とみなすコンセプトのことで、精巧な磁器のごとき俳句の対極を意味します。他にもっと良いネーミングを思いつかないでもないのですが、どことなく音感が可愛いのでこの言い方を手放せないでいるのでした。

ところで上の写真。奥にちらっと写っているのはカップ・マルタンにあるル・コルビュジエが夏を過ごした休暇小屋です(もっとよく見たい方はこちら)。よく雑誌などでは、この8畳の家をコルビュジエの辿りついた方丈の境地として賞賛していますが、彼はここに住んでいたことはなく、あくまでも夜を涼しく過ごすためのバンガローとして使用していました(昼間こんなところにいたら暑くて死ぬ)。あとこの休暇小屋は「最小限住宅というテーマを突きつめた傑作」なんて言い方もされますが、コルビュジエ本人にはいささか最小限すぎたようで、下の写真のような4畳強の仕事部屋を隣に建てたりしている。正味の話、コルビュジエのアーキテクチャー感覚の妙というのは全然ストイックじゃない(臨機応変でブリコラージュ性が高い)ところですね。どろだんご。

平日に他人の家で寝てしまう  竹井紫乙

2016-10-22

句集『フラワーズ・カンフー』について





3刷りまで版を重ねたのち、現在はkindle、オンデマンド印刷での販売となりました。オリジナルの句集は以下の書店で売り切れ次第、中古のみとなります。

がたんごとん(webshop)
Go Go Round This World! Books&Cafe(福島県郡山市)
七月堂(世田谷区)
本屋B&B(世田谷区)
書誌のらぼう(webshop・今春オープン予定)
弥生坂緑の本棚(文京区)
平井の本弾(江戸川区)
双子のライオン堂(港区)
books電線の鳥(長野県松本市)
葉ね文庫(大阪市)
1003(神戸市)
自由港書店(神戸市)
Book Cafe ULM(神戸市)
Brisées(岡山市)
本屋UNLEARN(広島県福山市)


Ⅰ. 春夏秋冬を2巡する8つの風景。或いはひとつきりの。各20句。

息をのむ坂道
古い頭部のある棲み家
反故に吹かれて
さらさらと
音に触る
水、不意の再会
西瓜糖の墓
明るい土地より


Ⅱ. きまぐれな、5つの掌編。

閑吟集 (李賀の超俳訳9句)
フラワーズ・カンフー (武闘学園モノ20句)
ジョイフル・ノイズ (SFモノ12句)
聖夜を燃やす (聖夜をめぐる断想12句)
こころに鳥が (八田木枯句の主題による短歌15首)


Ⅲ. トポスをめぐる、3つの長編。

天蓋に埋もれる家 (森敦『意味の変容』をめぐる24句)
出アバラヤ記 (森敦『意味の変容』をひきつぐ57句)
オンフルールの海の歌 (ある音楽家との約束20句)


あとがき

⌘ ⌘ ⌘ ⌘ ⌘ ⌘

(2016年10月26日追記)初版完売。重版決定しました。
(11月10日追記)第2刷が出ました。
(2017年5月3日追記)第8回田中裕明賞を受賞しました。
(5月29日追記)7月15日(土)午後3時、本屋B&Bにて
俳人の関悦史さんとのトークイベント「フラスコワークの実験室」開催。
場所は下北沢の本屋B&B。ミニライブ付き。詳細はこちら
(8月3日追記)第3刷が出ました。

2016-10-19

月の裏側のフランス人





日仏文化比較の本や在仏体験談などを読むとき必ずといっていいほど目にするフランス社会の特徴に「自己主張が強い」とか「自分の意見のない人間は他人から相手にされない」とかいったものがある。

こういう脅し(?)を読むたび、不思議な気持ちになる。なぜならわたしはフランス人に自己主張されたことがないから。だからこちらもぼんやりしていられて、気楽だ。

これがわたしの妄想というわけではない根拠となりそうなエピソードをひとつあげる。

わたしがパリを離れて最初に住んだのはトゥールーズというピレネー山脈に近い町だったのだが、この町に来たばかりの頃ある人から「ホニャララは好き?」と質問され(ホニャララの内容は忘れた)、パリにいたときの調子で「いいえ」と答えた。するとその人は笑いながら「フランス語ではね、質問を否定するときは『いいえ』と言わないで『はい。でも…』とか『はい。場合によりますが…』とか『はい。あ、ちょっと待ってください、実際はどうだろうなあ…』とかいった風に『はい』で始めるんだよ。『いいえ』と言って奇妙に思われないのはパリだけ」と教えてくれた。

その時は「まさかあ。もしかしてパリに対する僻み?」と思ったのだが、あれから10年、周囲を観察していて、たしかにいきなり何の躊躇もなく「ノン」と言う人を見ることはあまりない(役所の職員みたいな立場の人は除く)。もっともいきなり「ノン」と言うこと自体はまったく悪ではなく、わたし自身がかつてそうだったように、言葉のエレガンスに欠ける人と思われるだけの話だ。

ともあれ、フランス語を操る能力の低い子供や外国人にとって、この国のニュアンスに富むコミュニケーションはときどき月の裏側のように謎である。そしてまた、えてしてノンノン言いがちなこの「言語ゲームにおける他者たち」の生き様について、ここでヴィトゲンシュタイン風なことを書いてクールに日記を終えたいところなのだが、そんな芸当はたとえ日本語であっても無理なのであった。

2016-10-17

そういえば、への愛



画家の長谷川潾二郎に「現実とは精巧に造られた夢である」という美しい言葉がありますが、ついさっきわたしが思ったのは、夢を記すのにもっとも適した形式とは日記なのではないか、といったことでした。

「日記こそが自分の表現形式である」と語るジョナス・メカスのフィルムは、日々の「記録」であるにも関わらず、浅い眠りをみたす夢の瓦礫めいた印象を人に与えます。いってみれば「記憶」にさざなむ風景として「いま・ここ」に立ち会っている、といった距離感なんですね彼と日常との関係って。

で、メカスはこの関係を、思い出すことも語ることも止められず、ひっきりなしに震えつづける舌(ラング)のような質感のソニマージュとして表象するわけですが、今日のわたしはこうした舌の運動を《そういえば、への愛》と呼んでみたいんです。

つまり「いま・ここ」を糧として「いま・ここ」ならざる夢を生きつづける舌。あるいは日々の暮らしと戯れつつ、そのつど世界を重層的な非決定の状態へと導いてゆく舌。こういったものが《そういえば、への愛》というわけです。たぶん。

2016-10-16

SHOT IN THE HEART



きのうのブログに「目の前で手を差し伸べてくれた老人」と書いて思い出した話。

昔、とあるジャズ喫茶の35周年のお祝いに、95歳の大野一雄が踊りにやってきた。

踊るといっても当時の大野はすでに立ち上がることすらできない。背もたれのある椅子に半ば崩れるように腰かけ、息子の大野慶人に身体を支えられながら、かろうじてうごく右手を花のようにひらひらさせるのが、彼の踊りのすべてである。

この夜も、そのようにして、彼は踊った。そのようすを眺めていたら、しばらくして彼と向き合っていた私の顔の前に、その右手がふっと運ばれ、ひらら、ひらら、と一点で震えだした。

と、そのとき音楽が佳境に入った。

美しい目と指とが、さあ一緒に踊りましょう、と私を誘っている。どうしよう。どうしよう。咄嗟の展開にもじもじしていると、彼の右手がますます迫ってきて、もはや恥ずかしがってはいられない状況となった。ここは踊るしかない。とうとう腹をくくった私は、彼の右手を両手で握りしめ、すっと立ち上がった。

が、その瞬間、それまで私を誘っていた彼の側が、ぴたっとうごかなくなった。

はたと気づく。よく考えてみたら、彼は片手で踊ることしかできない身体なのだから、わたしがその片手を握ってしまったら完全に静止するのは当然なのだ。しかしわたしも手を離せない。というか、離れない。つまり、そのくらい勇気をふりしぼって掴んだ手だったわけだ。それで、ぴったりくっついてしまった手を天井に差し向けて、彼とおだやかに見つめあいつつそのまま心中する覚悟でいたら、うしろの席から「離せー」と痺れを切らしたようなものすごいヤジが飛んできて、ふっと、手が、離れた。

2016-10-15

限りなく透明に近いメモワール



数日前、ある人がジョナス・メカスの撮影したザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド結成時のライブ映像を教えてくれたのですが、大学生のころ『ウォールデン』を見たときはヴェルヴェッツと気づかずに見ていて、ほんの数日前までそのまま気づかずに生きていたということにああっと驚きました。ふだんアート・フィルムに触れるときって前調べも後調べもしないので、だいたい何にも理解しないうちにあらゆることがわーっと通りすぎてそして忘れてしまう。殊にあの時はメカスが「わたしの日記映画をどうかただ見つめてほしい」と語っていたので、いつも以上にただ見つめるようにしていたんだと思います。そういえば高校生のころ『リトアニアへの旅の追憶』を見たときも何もかんがえずにただ見つめていた。知覚が意味らしきものに辿り着かないよう細心の無意識を払って。当時わたしは重い病気を患っていてぼんやりは得意だったんです。ぼんやり、というか、もうろう、ですね。思うに、日々を生き抜くために情報の解像度をできるかぎり下げようとしていたのではないか。たぶん。そんなこんなでその日も椅子に凭れながらすこしずつ意識を失っていって、さいごには目の前がまっくらになってしまったので、目の前で手を差し伸べてくれたあの老人が本当にあのメカスだったのかどうか、本当にざんねんなことに現在もわからないままなんですよ。


2016-10-13

黴の匂いの雨





ポワチエは5世紀建立のサン・ジャン礼拝堂(西欧最古のキリスト教建築のひとつ)をはじめとして、さまざまな建築が見られる古都。大学都市としての歴史も古く、15世紀末にはすでに年間4000人を超える学生がこの町の大学に通っていた。

中世ロマネスク様式のノートルダム・ラ・グランド教会。差し込む陽がそっと訪問者をいたわる、やわらかく鄙びた空間。

黴の匂いの雨が降っている。さーさーと映写機の回るような音を立てて。それでわたしは目の前にひろがる光景を、たまさか《ここに映し出された過去》として、然るべく眺めることができた。

2016-10-12

ふたつのクラゲ。




サイエンス・フィルムはときおりアート・フィルムより詩的だ。上は宙を漂うクラゲ。下は水を漂うクラゲ。下のエフィラ(幼生クラゲ)のロボットは、ラットの心筋細胞をやわらかなシリコンの内部で培養し、水中のふたつの電極間に放ったもの。

ひとひらの肉の夜汽車をもちにけり  小津夜景

2016-10-11

コンプライアンスモラルとしてのはりねずみ



今日スーパーに行ったら、フランスのスポンジ会社「SPONTEX」が特売キャンペーンをやっていた。で、わたしも一パック買ってきた。


特売キャンペーン中だからか《スポンジの恋人、エルニー》がおまけについていた。エルニーはこのハリネズミの名前。とても有名なマスコットキャラクターだ。



こんな感じの密閉クリップ。チープでいい感じ。

SPONTEXは、いわゆる「比較広告」によって自社製品の優位性をアピールしている企業である。たとえば、ここのスポンジは海綿のような空気穴をもち、食パン並にふかふかしているのに、握ってみると驚くほど手ごわい弾力性があるのだが、この「よそのスポンジとちがって、うちのは天然のベッドのように柔らかい上に、耐久性も抜群ですよ」といった特色を消費者に伝える方法というのが、かなりストレート。しかし商品の価値をヒトではなくハリネズミ目線に固定してあるため、コンプライアンス的になんの問題も生じないところが巧妙というか、なんというか。下の動画はTVで放映されているコマーシャル。大変どぎつい下ネタなので、社会学モードでの視聴を推奨します。

2016-10-10

空気と図学と、ゼリービーンズ。





1970年大阪万博。それは空気ラヴァーズにとって、うきうきする建築がひしめく夢心地のイヴェントである。なかでも村田豊設計の富士グループ・パビリオン(写真一番奥)は、カラーリングとシンプルな大胆さとがとても晴れやかな空気膜建築だ。

太陽工業の回顧録によると、なんでも当時の建築業界にはまだコンピューターが導入されておらず、村田のつくった模型の複雑な曲線を設計図面に落とすことが誰にもできなかった。それをカーデザイナー出身の沖種郎が「“数学”的な計算ではなく、車のデザインでやってきた図学から入ればできる」と直観し、不眠不休の末やりとげたそうである。よくわからないけどすごいエピソードだなあ。図学よ、ありがとう。

で、ここからが本題。わたしはこのパビリオンの建築形式であるエアビーム(AirBeam)構造というのをエアビーン(AirBean)構造だと勝手に思いこみ、砂糖菓子のゼリービーンズを連想させるからそう呼ばれるのだとずっと信じきっていた。それでなんの不都合も今まで生じなかったのだからふしぎなものだ。そんなわけで、わたしの脳内にだけ存在しているらしいエアビーン構造による建造物の、理想的なサンプルを下に貼っておきます。

2016-10-07

数学者の生態について





高校生の頃、グロタンディークの書いた『孤独な数学者の冒険—数学と自己の発見への旅』という本を図書室で借りたことがある。数学はいつも赤点ギリギリでいまだに高校を卒業できない悪夢を見るくらいなのに、なぜそんな本を借りたのかというと、毎度のことながら表紙カバーがかわいらしくて紙質もたまらなかったから。内容は自伝エッセイみたいな感じ。砂糖キムチのつくり方が載っていたのだけ覚えていて、あとはぜんぶ忘れた。

グロタンディークは超のつく変人として有名だが、一般に数学者というのは変人たることが大いに期待されている稀有な職業である。ただしこの手の夢物語は、じっさいの現実にどのくらいあてはまるのかわからない。

この町にはフランスでもっとも大所帯の数学の研究所があり、そこにはいつもシルクハットと燕尾服で出勤してくる男性がいる。端から見るとたしかに、キテる、というか、イッテる、感は、ある。それで、いちおうその男性に「どうして毎日そんな格好してるの?」と尋ねてみたところ「僕、数学者だから型から入ってるの」との返答。どうやら普通の人だったようだ。

シュレディンガー音頭は夏を「Ψ(プサイ)にΦ(ファイ)」  関悦史

2016-10-06

MATH POWER 2016(2)





きのうのつづき。この数学俳句コンテスト、前回の優秀作が「点Pとロマンティックは止まらない」という句だったと知り、ならばと逆選狙いのものもつくってみた。「点P」「ピタゴラス」「素数」が多いが、これは番組内で出されたお題である。

ところでこの企画、横山明日希さんと関悦史さんが投句ツイートを直接見ていた訳ではなく(生放送なので当然だ)、控え室で角川『俳句』編集長が下読みしたものを舞台に回していたそう。わたしのツイートで下読みを通過して関さんの手元に届いたのは、きのうのブログの「樹形図」と「無理数」の二句。

余白がないので書けない。  ピエール・ド・フェルマー

2016-10-05

MATH POWER 2016(1)





MATH POWER 2016」の「数学俳句」というコーナーに関悦史さんが出演していた。数学用語を入れた俳句をみんなで詠もう、という企画である。上は番組放送中、ナツメヤシ子の筆名で投句したもの(樹形図の句は番組内で紹介してもらった)。せっかく筆名をつかったのだから、もっと壊れるべきだったと今にして思う。生放送だったせいで余裕がなかったのか、まったく思いつかなかった。それにしてもどの句にも臨機応変にコメントを述べていた関さんの頭脳よ。ふつうじゃない。

カントールの楽園から我々を追放するようなことは誰にもできない。  ダフィット・ヒルベルト

2016-10-02

風に吹かれて





きのうのつづき。給油スタンドに赤い船が停まっている。これから釣りにゆくようだ。

友人の話によると、彼女が子供だったころは船を運転するのに免許が要らず、よく家族で船遊びをしたそう。今でも15m以下のボートなら講習のみで誰でも運転できるらしく、停泊所はこのように自家用ボートだらけ。そういったわけで、帆柱のガムランも、なんともいえず素晴らしい音を奏でるのである。

灯台になりたい秋は目をつかひ  鴇田智哉


2016-10-01

空のカモメ、海のガムラン



毎朝、日が昇りはじめるころ、おびただしいカモメの鳴き声とともに、ガソリンの匂いとガムランの響きが海からアパートへと届く。ガソリンは停泊所の給油スタンドから。そしてガムランの正体は、停泊所にひしめく小舟の帆柱に、風に吹かれた索具のあたる音だ。

人の手を介さない、ゴーストリー・サウンドの愉しみ。

愉しみは風のあるかぎり日中もつづく。ふとこのサウンドを誰かと分かち合いたくなる。こういった、なんでもないことこそ伝えるのがむずかしいと知りながら。ところが、ル・アーヴルの向かい側にあたるイギリスの海岸で、わたしの聴いたのと同じ音をせっせと録音していた人がいたらしい。なんという幸運。そのお陰で、いまこうやってそれをお聴かせすることができるわけです。