2016-10-31

青くまたたく私性


http://www.notey.com/blogs/james-turrell?page=2

短歌界にはいわゆる近代的物語装置としての〈私性〉の問題というのがありますが、わたし自身はどちらかというと、かりそめの生、うたかたの世、うつしよの言といった虚構を堂々と生きている王朝和歌の方がしっくりくるタチです。逆説的な話ですが、むしろ昔の〈奥行きのない死生観〉というのが実は近代的主体よりもずっと倫理的な〈私性〉を備えているような気がするんですよ、むやみに真実を騙らないという意味で。そういったわけでシュレディンガーの猫的に、存在論的幽霊的に、わたしも明滅しようと思うのでした。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
    宮澤賢治

2016-10-30

旧市街を歩く



我が家はめったに外食をしない家庭なんですが、秋だけは計画的に食べ歩きをします。理由はこの季節、日本から遊びに来る知人が多いから。

知人が来たら一度くらいはレストランに案内することになる。で、案内するからにはやっぱり喜んでもらいたい。ところがクチコミも、地元の人の紹介もアテにならない(シェフやパロトンが変わったりして)という苦い経験をなんどもし、これはちゃんと自分たちでお金を払って下調べをしなければダメだ、と思い知ったわけです。

あったらいいなと思うのは、ひっそりとした裏通りにある極上の店。そんな空間をさがして旧市街をぶらぶらと散歩。一軒一軒つぶさに観察しつつ。

短夜や茶碗で飲んで白ワイン  長嶋有

2016-10-29

しっぽを見せる



仮にも人間である以上、しっぽに関しては絶対に見せないように気をつけるのが大人というものなのかもしれないが、案外見えていたほうがいいことも、ある。なかでもふだん品の良さそうな人が見せるしっぽは、ふしぎなものを見る気持ち。心を無にして眺めたい。ふだん品の良さそうという訳ではない人のしっぽは、別に出さなくてもいいよ、と思う。落差がなくてつまらないから。

しっぽは、わたしにとって、繊細さの表象だ。弱み、ではなく。

2016-10-28

【告知】しおたまこ個展「ひとり文化祭!」




秋晴れよろしきこの季節、句集『フラワーズ・カンフー』の装画を担当してくださったイラストレーターのしおたまこさんが、来月11月12日より表参道のギャラリーニイクで文化祭(個展)を開催します。

野性的でありつつ繊細という、たいへん魅力的なしおたまワールド。会場では彼女のイラストレーションをのせて制作したワンピース、ニットストールから、カミモノ、布雑貨、こけしまで、さまざまな作品&商品の展示・販売が行われます。そんな素敵アイテムの中に、ひっそりと『フラカン』も
紛れ込ませてもらう予定です。


2016-10-27

雨のゆうぐれ



海にいると音のない時というものが存在しない。潮騒でぴったりと耳が蓋がれてしまわない限り。潮騒を前にすると、こころのつぶやきは大抵掻き消される。そしてただ肺で息をするばかりの生き物になる。

老いながら色づく家を過ぎるときあなたにもある一対の肺  佐藤弓生

2016-10-26

俳句と数学


https://zieta.pl

少し前の日記で小池正博の「三句の渡り理論」に触れたときはすっかり忘れていたのだけれど、そのあと「MATH POWER 2016」の数学俳句イヴェントがあったせいで『連歌』の著者であるジャック・ルーボーがブルバキ派の数学者でもあったことを思い出した。

和歌、連歌、俳諧に対するルーボーの興味はそもそも数学的なきっかけに始まっている。なんでも彼は、それらが5、7、17、31といった素数から構成されている点に《詩に内包される美の秘密》が隠されているのでは、と考えたらしい。出会いって、ほんとうに人それぞれだ。

俳句----そのつど多彩なヴァリエーションとして出現しつつ、その背後にどれも等しい素数のスケールを秘めた音楽。その単純な反復性を愛しみながら、広々としたことばの世界に思うがままの、あるいは思いがけない点景を描く、その楽しさ。



おがたまの咲く土地土地を印す地図  四ッ谷龍

2016-10-25

どろだんご俳句への道、そして休暇小屋。



手仕事のぬくもりとユーモアの感じられるル・コルビュジエの仕事は《どろだんご俳句》を考える上できわめて参考になるアーキテクチャー感覚です。

この《どろだんご俳句》というのは、可塑性を内包した状態をもって一句を完成とみなすコンセプトのことで、精巧な磁器のごとき俳句の対極を意味します。他にもっと良いネーミングを思いつかないでもないのですが、どことなく音感が可愛いのでこの言い方を手放せないでいるのでした。

ところで上の写真。奥にちらっと写っているのはカップ・マルタンにあるル・コルビュジエが夏を過ごした休暇小屋です(もっとよく見たい方はこちら)。よく雑誌などでは、この8畳の家をコルビュジエの辿りついた方丈の境地として賞賛していますが、彼はここに住んでいたことはなく、あくまでも夜を涼しく過ごすためのバンガローとして使用していました(昼間こんなところにいたら暑くて死ぬ)。あとこの休暇小屋は「最小限住宅というテーマを突きつめた傑作」なんて言い方もされますが、コルビュジエ本人にはいささか最小限すぎたようで、下の写真のような4畳強の仕事部屋を隣に建てたりしている。正味の話、コルビュジエのアーキテクチャー感覚の妙というのは全然ストイックじゃない(臨機応変でブリコラージュ性が高い)ところですね。どろだんご。


平日に他人の家で寝てしまう  竹井紫乙

2016-10-24

有機生成俳句の庭で



なぜ俳句に飽きないのか、としょっちゅう思う。

で、そのたび「俳句は時空の構造(ストラクチャー)でなく質感(テクスチャー)を創る作業だから」との結論に至る。

断るまでもないが、これは極私的な感想だ。歴史的にみれば、漢詩や和歌に拮抗せんとした芭蕉や蕪村も、近代的遠近法を俳句に導入した子規も、構造をめぐる試行錯誤の中にいた。季語や切れ字がその中で考案された《装置》であるのも疑いない。

とはいえこういった話は、質感が構造に劣る問題であることを意味しない。型を疑い、素描を避け、モノ以上にそのモノを存在せしめる空気(内的環境)を掴むといった思考法は、構造と同等もしくはそれ以上に古いのだから。

俳句が時空の質感を創る作業だというとき私が想うのは、器をこしらえては壊す陶工のすがた。感触をたしかめるように、ことばにふれる快楽。或いはまた、ボサノヴァのような無指向性。同じ場所にずっと浮遊しながら、音楽がそれ自体から絶えず湧き出るふしぎに身をまかす官能。告白めいたことを書けば「自分はたえまなく作句することで、完成に至るまでのプロセスそれ自体を引き延ばしているのではないか」とも思う。

俳句というシステムに、ひとりの作家が、ことばを供給する。すると、ゆったりとした一息の長さのフレーズが、べつだん誰の耳を奪うでもなく繰り返しあふれだす。

ことばは世界のすがたをなぞり、その多様性に共鳴しながら、なにがしかの意味を部分的に残して、いつしかただの運動の痕跡と化すだろう。興味ぶかいと同時に無視することもできる、そんな愉快な無をふくんだ俳句になるだろう。

小津夜景【みみず・ぶっくす 56

2016-10-23

句集『フラワーズ・カンフー』について



『フラワーズ・カンフー』(2016年10月刊行)
著者○小津夜景
装画○しおたまこ 装幀○和兎
帯文○正岡豊、鴇田智哉 

⌘ ⌘ ⌘ ⌘ ⌘ ⌘


ふらんす堂amazonhonto 他のオンライン書店。
紀伊国屋新宿本店、丸善丸の内本店、東京堂書店、ジュンク堂、
八重洲ブックセンター他の大きな本屋さん。

そのほか下記の小さな本屋さんで扱っています。
(※少部数ゆえ、在庫につきましては各店舗にお問い合わせください。)
アダノンキ(北海道)/ oncafe(北海道)
ひめくり(岩手)/ カネイリミュージアムショップ6(宮城)
ペンギン文庫(宮城)/ リードブックス(福島)
ハナメガネ商会(栃木)/ sonorité(茨城)
ふやふや堂(群馬)/ よもぎBOOKS(東京)/ タコシェ(東京)
伊野尾書店(東京)/ 双子のライオン堂(東京)
ROUTE BOOKS(東京)/ B&B(東京)
ひるねこBOOKS(東京)
/ 七月堂(東京)
弥生坂緑の本棚(東京)/ Amleteron(東京)
  劃桜堂(東京他)/ 青と夜ノ空(東京)/ 古書ほうろう(東京)
BOOKSf3(新潟)/ オヨヨ書林(石川)/ 栞日(長野)
MERCY'S books&postcards(愛知)/ モジカ(京都)
マヤルカ古書店(京都)/ Violet And Claire(京都)
London Books(京都)/ メリーゴーランドKYOTO(京都)
葉ね文庫(大阪)/ 居留守文庫(大阪)/ 雨の日製作所(奈良)
1003(兵庫)/ 邯鄲堂(鳥取)/ 古本冬營舎(島根)
Brisées(岡山)/ HAHU(広島)/ ホリデイ書店(広島)
ロバの本屋(山口)/ 迷路のまちの本屋さん(小豆島)
蛙軒(愛媛)/ 本屋ルヌガンガ(香川)
taramu books & cafe(福岡)
Rethink Books(福岡)/ 長崎次郎書店(熊本)
長崎書店(熊本)/ ひとやすみ書店(長崎)
市場の古本屋ウララ(沖縄)/ book café Bookish(沖縄)

⌘ ⌘ ⌘ ⌘ ⌘ ⌘



Ⅰ. 春夏秋冬を2巡する8つの風景。或いはひとつきりの。各20句。

息をのむ坂道
古い頭部のある棲み家
反故に吹かれて
さらさらと
音に触る
水、不意の再会
西瓜糖の墓
明るい土地より


Ⅱ. きまぐれな、5つの掌編。

閑吟集 (李賀の超俳訳9句)
フラワーズ・カンフー (武闘学園モノ20句)
ジョイフル・ノイズ (SFモノ12句)
聖夜を燃やす (聖夜をめぐる断想12句)
こころに鳥が (八田木枯句の主題による短歌15首)


Ⅲ. トポスをめぐる、3つの長編。

天蓋に埋もれる家 (森敦『意味の変容』をめぐる24句)
出アバラヤ記 (森敦『意味の変容』をひきつぐ57句)
オンフルールの海の歌 (ある音楽家との約束20句)


あとがき

⌘ ⌘ ⌘ ⌘ ⌘ ⌘

(2016年10月26日追記)初版完売。重版決定しました。
(11月10日追記)第2刷が出ました。
(2017年5月3日追記)第8回田中裕明賞を受賞しました。
(5月29日追記)7月15日(土)午後3時、本屋B&Bにて
俳人の関悦史さんとのトークイベント「フラスコワークの実験室」開催。
場所は下北沢の本屋B&B。ミニライブ付き。詳細はこちら
(8月3日追記)第3刷が出ました。

2016-10-22

おおぞらをとぶ


そんなこんなで鳥が大好きなのですが、しっぽ捌きが、とか、はね捌きが、とか、フリーダムが、とか、そんな陽気なことばかり考えているわけではなくてですね、本当のことをいえば「鳥って孤独だなあ…」としみじみ思っているんです。大空をとぶってさみしいなあって。

そう思うようになったのは、中学生の頃やったドラクエⅢのせい。物語の後半の後半で、仲間が全員死んでしまったあと、主人公がたったひとりで旅を再開するじゃないですか。ここまで来たら、前に進むしかないから。それでわたし、主人公を不死鳥ラーミアの背に乗せたんですが、空に舞いあがって地上を一望したその瞬間、ひとりぼっちで空を飛ぶとはこんなにも孤絶の世界を生きることだったんだ、と悟ったんです。で、ショックで泣きじゃくってしまった。さいわい隣にいた弟(当時幼稚園児)がいっしょうけんめい慰めてくれたお陰で、すぐ立ち直ったのですが。

けれどもあのときの悲しみは今でも強く残っていて、たまに鳥を眺めていて我慢できなくなると夫に「ねえねえ。あのさ、わたし、鳥にこころがなかったらいいなって思うんだ。だって、こころがあって、なおかつ空をとべるなんて、さみしすぎるよね。鳥がさみしさを理解するとしたら、こっちだって憧れの気持ちで眺めてられないでしょ? つらくて」と訴えるんですよ。すると夫は「そうだねえ…。でも、あると思うよ、こころ」と言う。いや、それはわたしもわかってるし。わかってるけど、それでもすべての鳥はこころを超越した存在であると信じて生きていたい。そういうことなのです。


天蓋はただいちにんのために在る花折る人の孤絶のために  紀野恵

2016-10-21

しっぽ捌きとソウルミュージック


昔、城達也の「ジェットストリーム」というラジオ番組があったじゃないですか。あの番組って「空の旅をお楽しみください」と始まるけど、なぜかオープニング曲からして海の旅ですよね。あれ、子供の頃すごくふしぎだった。なんでこんなに「憧れのハワイ航路」なノリなんだろうって。

でね、あれこれ考えるうちに、ふつうに空を〈飛んでる〉感じの曲って割とありそうでないなってことに思い至って。

これが空に〈浮いてる〉曲だったら見つけやすい。スペイシーな曲とかも。でもわたしが聴きたいのはそういうのじゃなくて、この上なくシンプル、かつ気ままに、大人のカモメがありふれた青空をすいすい滑っているような曲なんです。

「これ空飛んでるし」と今までに教えてもらったことのある曲は、どれもドライヴの疾走感だった。ハイウェイ・ハイっていうの? 楽しいんだけど、できあいの道路の上を走ってる。フリー・フライトじゃない。

いまぱっと思いつく中で〈飛んでる〉と感じる曲は The Spinners の It's a Shame. これも出だしはちょっとドライヴっぽいのだけど、途中からいきなりタイヤが消えて、飛ぶ。スライド、からの、フライト感。あ、道路だと思ってたら滑走路だったんだ、みたいな。そして一回飛んだあとは、最後までずっと飛びっぱなし。ワンダフル。

あとこれは The Spinners というバンド名から連想したわけではないのですが(というのは嘘で100%そうなんですが)、飛翔にはきゅっとしたスピン感覚が必要なのかもしれません。はね捌き、とか、しっぽ捌き、とかを体現したような。思えば、ソウルミュージックやってる人ってしっぽついてる感じ、すごくしますよね。きゅって。


行く秋のヒエログリフに鳥整列  石原ユキオ



2016-10-20

月の裏側のフランス人



日仏文化比較の本や在仏体験談などを読むとき必ずといっていいほど目にするフランス社会の特徴に「自己主張が強い」とか「自分の意見のない人間は他人から相手にされない」とかいったものがある。

こういう脅し(?)を読むたび、不思議な気持ちになる。なぜならわたしはフランス人に自己主張されたことがないから。だからこちらもぼんやりしていられて、気楽だ。

これがわたしの妄想というわけではない根拠となりそうなエピソードをひとつあげる。

わたしがパリを離れて最初に住んだのはトゥールーズというピレネー山脈に近い町だったのだが、この町に来たばかりの頃ある人から「ホニャララは好き?」と質問され(ホニャララの内容は忘れた)、パリにいたときの調子で「いいえ」と答えた。するとその人は笑いながら「フランス語ではね、質問を否定するときは『いいえ』と言わないで『はい。でも…』とか『はい。場合によりますが…』とか『はい。あ、ちょっと待ってください、実際はどうだろうなあ…』とかいった風に『はい』で始めるんだよ。『いいえ』と言って奇妙に思われないのはパリだけ」と教えてくれた。

その時は「まさかあ。もしかしてパリに対する僻み?」と思ったのだが、あれから10年、周囲を観察していて、たしかにいきなり何の躊躇もなく「ノン」と言う人を見ることはあまりない(役所の職員みたいな立場の人は除く)。もっともいきなり「ノン」と言うこと自体はまったく悪ではなく、わたし自身がかつてそうだったように、言葉のエレガンスに欠ける人と思われるだけの話だ。

ともあれ、フランス語を操る能力の低い子供や外国人にとって、この国のニュアンスに富むコミュニケーションはときどき月の裏側のように謎である。そしてまた、えてしてノンノン言いがちなこの「言語ゲームにおける他者たち」の生き様について、ここでヴィトゲンシュタイン風なことを書いてクールに日記を終えたいところなのだが、そんな芸当はたとえ日本語であっても無理なのであった。

2016-10-19

トラウマのレッスン



今でこそ生まれたときからきのこを愛していたかのような顔で生きているが、実をいうと20歳過ぎまできのこが怖かった。子供の頃、イッポンシメジ、という名の毒きのこに殺されかけたせいだ。

⌘ ⌘ ⌘ ⌘ ⌘ ⌘

あの夜、看護師はなんでもない顔で透明のチューブを片方の手ににぎり、もう片方の手で担架に仰臥するわたしの頭を横向きにした。そして「はーい。ゆっくり息を吐いてねー」と話しかけながら、わたしの鼻の穴にそのチューブをぐいぐい押し込んできた。ためらいのない、ほんの一瞬の手際でその作業が終えられてしまうと、つづいて看護師はチューブの端に針のついていない注射器を取りつけ、そのピストンを今度はじわじわと引っぱった。胃に溜まっていた流動物が、にゅる、にゅる、とチューブを通って吸い上げられてきたのが、見えた。

看護師は「わあ。見えるわ。きのこ。切れ端。ほら見える?」とわたしに話しかける。だが朗らかなのはその口調だけで、視線はつねに汚物の観察を怠ろうとしないのがまことに恐ろしい。シリンダーがいっぱいになると、看護師は注射器をチューブから取りはずし、シリンダーの汚物を空のバケツに捨てた。それからはもうピストンで吸い上げなくても、サイフォンの原理によって、胃の中身が勝手にチューブからバケツへと滴り落ちてゆくようだった。

半時間もすると、あらかた洗浄が終わった。体の位置をすこしずらしてバケツの中をそっとのぞくと、たくさん血のかたまりが落ちている。怖い。心臓が止まりそうだ。それとももう少し、止まっているのだろうか? そんなわたしの心配が伝わったらしく、看護師は「安心して。内臓がチューブの先で、ちょっと傷ついただけだから。だいじょうぶ、だいじょうぶ。ははははは!」と笑った。

2016-10-18

そういえば、への愛


画家の長谷川潾二郎に「現実とは精巧に造られた夢である」という美しい言葉がありますが、ついさっきわたしが思ったのは、夢を記すのにもっとも適した形式とは日記なのではないか、といったことでした。

「日記こそが自分の表現形式である」と語るジョナス・メカスのフィルムは、日々の「記録」であるにも関わらず、浅い眠りをみたす夢の瓦礫めいた印象を人に与えます。いってみれば「記憶」にさざなむ風景として「いま・ここ」に立ち会っている、といった距離感なんですね彼と日常との関係って。

で、メカスはこの関係を、思い出すことも語ることも止められず、ひっきりなしに震えつづける舌(ラング)のような質感のソニマージュとして表象するわけですが、今日のわたしはこうした舌の運動を《そういえば、への愛》と呼んでみたいんです。

つまり「いま・ここ」を糧として「いま・ここ」ならざる夢を生きつづける舌。あるいは日々の暮らしと戯れつつ、そのつど世界を重層的な非決定の状態へと導いてゆく舌。こういったものが《そういえば、への愛》というわけです。たぶん。

2016-10-17

SHOT IN THE HEART


きのうのブログに「目の前で手を差し伸べてくれた老人」と書いて思い出した話。

昔、釧路に存在したとあるJAZZ喫茶の35周年を祝うために、90歳を超えて身体がうごかなくなった大野一雄がわざわざ踊りにやってきた。わたしはその公演をいちばん前の席で見ていたのだが、パフォーマンスの最中ふとしたことから彼に手を差し伸べられたと勘違いして、100人ほどの観客の目前でその手をがっしり掴んでしまったことがある。

最初、大野一雄は背もたれのある椅子に半ば崩れるように腰かけ、大野慶人に身体を支えられながら、かろうじてうごく片手だけを花のようにひらひらさせていた。それからしばらくすると、その手がわたしのちょうど顔のあたりに運ばれ、ひら、ひら、と一点でふるえだした。

と、そのとき音楽が、ちょうど佳境に入った。

彼の指はあきらかに、さあ一緒に踊りましょう、とわたしの手を取ろうとしている。わたしはそれに気づいたものの咄嗟の展開にどうすることもできず、しばらくもじもじしていた。ところがいつまでたってもその指はわたしの前を去ろうとしない。それでとうとう、ここは踊るしかないと腹をくくり、彼の手を両手でそっと包み込みながら、わたしはすっと立ち上がったのだった。

が、その瞬間、今度は彼の側がうごかなくなった。というか、うごけなくなった。よく考えてみたら、片手で踊ることしかできない身体なのだから、わたしがその片手を握ってしまったら彼が完全に静止するのは当然である。しかしわたしも手を離せない。というか、離れない。つまり、そのくらい勇気をふりしぼって掴んだ手だったわけだ。それで、ぴったりくっついてしまった手を天井に差し向けて、彼とおだやかに見つめあいつつそのまま心中する覚悟でいたら、うしろの席から「離せー」と痺れを切らしたようなヤジが飛んできて、そのお陰でふっと手が、離れた。


2016-10-16

限りなく透明に近いメモワール


数日前、ある人がジョナス・メカスの撮影したザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド結成時のライブ映像を教えてくれたのですが、大学生のころ『ウォールデン』を見たときはヴェルヴェッツと気づかずに見ていて、ほんの数日前までそのまま気づかずに生きていたということにああっと驚きました。ふだんアート・フィルムに触れるときって前調べも後調べもしないので、だいたい何にも理解しないうちにあらゆることがわーっと通りすぎてそして忘れてしまう。殊にあの時はメカスが「わたしの日記映画をどうかただ見つめてほしい」と語っていたので、いつも以上にただ見つめるようにしていたんだと思います。そういえば高校生のころ『リトアニアへの旅の追憶』を見たときも何もかんがえずにただ見つめていた。知覚が意味らしきものに辿り着かないよう細心の無意識を払って。当時わたしは重い病気を患っていてぼんやりは得意だったんです。ぼんやり、というか、もうろう、ですね。思うに、日々を生き抜くために情報の解像度をできるかぎり下げようとしていたのではないか。たぶん。そんなこんなでその日も椅子に凭れながらすこしずつ意識を失っていって、さいごには目の前がまっくらになってしまったので、目の前で手を差し伸べてくれたあの老人が本当にあのメカスだったのかどうか、本当にざんねんなことに現在もわからないままなんですよ。



2016-10-15

ジョナス・メカス『セメニシュケイの牧歌』



ふんわりと身にまとう田舎の空気と都会の洗練。繊細なおしゃれさと細部にやどる軽やかさ。あたらしい出会いとふりつもる思い出。ジョナス・メカスの作品は生きることを美しくする質感に溢れている。あるいは自由をためらいなく名指す声に。
 

よく知られるように、メカスは孤独、飢餓、別離といった、耐えがたく、底があるのかわからないまっくらな地面を踏みしめて歩いてきた。そして彼の場合、そんな闇の淵から這い上がる力の源は、その不屈の夢想癖にあったのだと思う。

  古きものは、雨の音

古きものは、茂みの枝に降りかかる雨の音、
夏の紅に染まる曙に啼くクロライチョウの声、
古きもの、それは、私たちの交わすことば、

(中略)

古きもの、それは、私たちのこうした生活----幾世代にもわたって、
踏みならされた野原、くぼみこんだ耕地。
大地の足跡は、語りかけ、祖先の匂いを残す。
あの同じ冷たい石の井戸から、私たちの祖先は、
戻って来るたくさんの家畜たちに、水を飲ませた。
また、家の土間にくぼみができたり、
家壁が剥げ落ちてくると、
あの同じ穴から、黄色の粘土を掘り出したものだ、
黄金色の砂を、あの同じ野原から----。
そして、やがて、私たちがこの世を去っていったら、
残った者たちが、畠のはずれの、あの青い境界石に座るであろう。
また、彼らが仕事から戻って、テーブルに着くとき----
どのテーブルも、水差しの陶器も、語りかけるであろう、
小屋の壁の一つ一つの校木(あぜき)が、語りかけるであろう。
彼らは忘れまい、黄色の砂礫の大きな採掘場を、
また、風に揺れるライ麦畑を、
亜麻畠の傍で、私たちの女たちが歌う、もの憂げな歌を、
そして、建てたときの、新しい家の、この匂いを!----
新鮮な苔の匂いを。

ああ、古きものは、クローバーの開花、
夏の夜の、馬の鼻あらし----
地ならし機のローラーや、まぐわ、犂の音、
水車の石臼の重い音、
草むしりをする女たちの肩懸けの白い光り、----
古きものは、茂みの枝に降りかかる雨の音、
夏の紅に染まる曙に啼くクロライチョウの声----
古きもの、それは、私たちの交わすことば。


(ジョナス・メカス『セメニシュケイの牧歌』村田郁夫訳)

メカスは26歳のとき、この26編から成る美しい『牧歌』を出版した。レジスタンス運動に関わり、ナチスの強制労働収容所に送られ、終戦後は母国リトアニアが消失し、難民収容所を渡りあるいた末にアメリカ落ちするに至った前年にあたる1948年のことである。この詩集を翻訳した村田郁夫によると、戦後はソ連のコルホーズ政策のためにリトアニアの地は解体され、セメニシュケイという村の名もまた早々に失われたそうだ。


「ヨーロッパ人の真剣さはたいていの場合、滑稽だよ。あんなにものすごく真剣でなくてもいいはずだよ、大丈夫だよ」(ジョナス・メカス『メカスの難民日記』飯村昭子訳)

2016-10-14

黴の匂いの雨



ポワチエは5世紀建立のサン・ジャン礼拝堂(西欧最古のキリスト教建築のひとつ)をはじめとして、さまざまな建築が見られる古都。大学都市としての歴史も古く、15世紀末にはすでに年間4000人を超える学生がこの町の大学に通っていた。

ふと足を踏み入れた、中世ロマネスク様式のノートルダム・ラ・グランド教会。差し込む陽がそっと訪問者をいたわる、やわらかく鄙びた空間。

黴の匂いの雨が降っている。さーさーと映写機の回るような音を立てて。それでわたしは目の前にひろがる光景を、たまさか《ここに映し出された過去》として、然るべく眺めることができた。

2016-10-13

ゼリーフィッシュと遠い記憶


クラゲは呼吸に似ている。あるいは肺そのものに。あるいはそれはタイムカプセルのようでもある。なにも見ずなにも聞かず、ただ世界を漂っていたころの、からっぽの記憶のカプセル。


サイエンス・フィルムはときおりアート・フィルムより詩的だ。上は宙を漂うクラゲ。下は水を漂うクラゲ。下のエフィラ(幼生クラゲ)のロボットは、ラットの心筋細胞をやわらかなシリコンの内部で培養し、水中のふたつの電極間に放ったもの。

ひとひらの肉を透けたる夜汽車かな  小津夜景

2016-10-12

コンプライアンスモラルとしてのはりねずみ


今日スーパーに行ったら、フランスのスポンジ会社「SPONTEX」が特売キャンペーンをやっていた。で、わたしも一パック買ってきた。


特売キャンペーン中だからか《スポンジの恋人、エルニー》がおまけについていた。エルニーはこのハリネズミの名前。とても有名なマスコットキャラクターである。



こんな感じの密閉クリップだった。チープでいい感じかもしれない。

ところでSPONTEXは、いわゆる「比較広告」によって自社製品の優位性をアピールしている企業である。たとえば、ここのスポンジは海綿のような空気穴をもち、食パン並にふかふかしているのに、握ってみると驚くほど手ごわい弾力性があるのだが、この「よそのスポンジとちがって、うちのは天然のベッドのように柔らかい上に、耐久性も抜群ですよ」といった特色を消費者に伝える方法というのが、かなりストレート。しかし商品の価値をヒトではなくハリネズミ目線に固定してあるため、コンプライアンス的になんの問題も生じないところが巧妙というか、なんというか。下の動画はTVで放映されているコマーシャル。大変どぎつい下ネタなので、社会学モードでの視聴を推奨します。

2016-10-11

空気と図学と、ゼリービーンズ。



1970年大阪万博。それは空気ラヴァーズにとって、うきうきする建築がひしめく夢心地のイヴェントである。なかでも村田豊設計の富士グループ・パビリオン(写真一番奥)は、カラーリングとシンプルな大胆さとがとても晴れやかな空気膜建築だ。

太陽工業の回顧録によると、なんでも当時の建築業界にはまだコンピューターが導入されておらず、村田のつくった模型の複雑な曲線を設計図面に落とすことが誰にもできなかった。それをカーデザイナー出身の沖種郎が「“数学”的な計算ではなく、車のデザインでやってきた図学から入ればできる」と直観し、不眠不休の末やりとげたそうである。よくわからないけどすごいエピソードだなあ。図学よ、ありがとう。

で、ここからが本題。わたしはこのパビリオンの建築形式であるエアビーム(AirBeam)構造というのをエアビーン(AirBean)構造だと勝手に思いこみ、砂糖菓子のゼリービーンズを連想させるからそう呼ばれるのだとずっと信じきっていた。それでなんの不都合も今まで生じなかったのだからふしぎなものだ。そんなわけで、わたしの脳内にだけ存在しているらしいエアビーン構造による建造物の、理想的なサンプルを下に貼っておきます。


2016-10-10

鳴り渡る夕刻



海岸の近くに良い崖の家があると子育てがしやすい。まだほんの小さく、ぜんぜんうまく空をとべない時期から、子どもたちを海で遊ばせられるから。

そんな訳でル・アーヴルの浜辺は、いつも子どもたちでいっぱいだった。


子どもたちは人間にとても興味があるらしく、近くまで寄ってきてはこちらをじっと見つめる。この子みたいに。この子はもう雛っぽい雰囲気じゃないけれど、それでもじゅうぶんに丸くて、毛もふわふわ。

翻ってニースでは、少なからぬ親がわが子をアパートの屋根裏で育てている。そしてある程度の大きさにならないと、けっして海へは連れてこない。大きな車道をいくつも渡り切るのが至難のわざなのだ。

⌘ ⌘ ⌘ ⌘ ⌘ ⌘ 

潮騒の鳴りわたる夕刻。もうみんな家に帰ってしまった。ほんの数羽の子どもたちが、親を待って浜辺に残っているばかり。

2016-10-09

学食の思い出



うろおぼえのまま書くのだけれど、たしか『ジキル博士とハイド氏』の冒頭数ページの部分で、パリに留学しているイギリス富裕層出身の男の子が、わざわざ裏通りのマズい食堂でガソリンみたいなワインを飲んで「ああ、これぞ僕の思い描いていたパリ…」と恍惚するシーンがある(たぶん、ある。なかったら、ごめんなさい)。田舎でマズいものを食べても単にマズいだけだが、大都会の猥雑な裏通りで食べるひどいごはんは、壮麗なメガロシティとミジンコみたいな自分とのコントラストのせいか、たしかに奇妙な陶酔感がある。『ブラックレイン』のサイバーパンクな大阪なんて、マズそうなごはんがたまらなくロマンティックだ。

ところでフランスには、大検をうければ誰でも入学できて学費も無料の「大学」と、選抜試験を受けなければならない「グラン=ゼコール」といった二種類の高等教育機関があって、一般に大学は学食がマズい。攻めの姿勢で「うっとり」しないと、割といろいろ無理なくらいマズいこともある。いっぽうグラン=ゼコールはすごくおいしくて安く、昔わたしが利用していた食堂では250円でフルコースが食べられた(どちらも自分の知る範囲の話)。

あまりに安いのでクリスマス・イヴにも期待しつつ行ってみたら、その日のメインディッシュはバンビのステーキ。ステーキの上にはトリュフがのっていて、さらにシェフが全部のテーブルにコニャックを振舞って回った。デザートはガラスのボウルに入ったティラミス。

この格差がどこから来るのかについて何か述べるつもりはない(さも中立ぶった顔をして他所の国を「評価」するのがイヤ)。それよりも、あれだけ学費をとっている上に学食まで有料で提供している日本の大学は、いったいどこにお金が消えているんだろう、とふしぎに思ったりする。


2016-10-08

数学者の生態について



高校生の頃、グロタンディークの書いた『孤独な数学者の冒険—数学と自己の発見への旅』という本を図書室で借りたことがある。数学はいつも赤点ギリギリでいまだに高校を卒業できない悪夢を見るくらいなのに、なぜそんな本を借りたのかというと、毎度のことながら表紙カバーがかわいらしくて紙質もたまらなかったから。内容は自伝エッセイみたいな感じ。砂糖キムチのつくり方が載っていたのだけ覚えていて、あとはぜんぶ忘れた。

グロタンディークは超のつく変人として有名だが、一般に数学者というのは変人たることが大いに期待されている稀有な職業である。ただしこの手の夢物語は、じっさいの現実にどのくらいあてはまるのかわからない。

この町にはフランスでもっとも大所帯の数学の研究所があり、そこにはいつもシルクハットと燕尾服で出勤してくる男性がいる。端から見るとたしかに、キテる、というか、イッテる、感は、ある。それで、いちおうその男性に「どうして毎日そんな格好してるの?」と尋ねてみたところ「僕、数学者だから型から入ってるの」との返答。どうやら普通の人だったようだ。


シュレディンガー音頭は夏を「Ψ(プサイ)にΦ(ファイ)  関悦史 


2016-10-07

MATH POWER 2016(2)





きのうのつづき。この数学俳句コンテスト、前回の優秀作が「点Pとロマンティックは止まらない」という句だったと知り、ならばと逆選狙いのものもつくってみた。「点P」「ピタゴラス」「素数」が多いが、これは番組内で出されたお題である。

ところでこの企画、横山明日希さんと関悦史さんが投句ツイートを直接見ていた訳ではなく(生放送なので当然だ)、控え室で角川『俳句』編集長が下読みしたものを舞台に回していたそう。わたしのツイートで下読みを通過して関さんの手元に届いたのは、きのうのブログの「樹形図」と「無理数」の二句。


余白がないので書けない。  ピエール・ド・フェルマー 

2016-10-06

MATH POWER 2016(1)



MATH POWER 2016」の「数学俳句」というコーナーに関悦史さんが出演していた。数学用語を入れた俳句をみんなで詠もう、という企画である。上は番組放送中、ナツメヤシ子の筆名で投句したもの(樹形図の句は番組内で紹介してもらった)。せっかく筆名をつかったのだから、もっと壊れるべきだったと今にして思う。生放送だったせいで余裕がなかったのか、まったく思いつかなかった。それにしてもどの句にも臨機応変にコメントを述べていた関さんの頭脳よ。ふつうじゃない。

カントールの楽園から我々を追放するようなことは誰にもできない。  ダフィット・ヒルベルト

2016-10-05

《おそれとおののき》のヴァイブレーション



いきなりですが、世界における《錯乱》の存在が自明である以上、言語は人為的規則の圧政によって《錯乱》を鎮圧するのではなく、それと共生する方法をさがすことが大切です。ここでいう《錯乱》は無方向性というよりも、人為的体系に収まらないものを指しています。要するに《脱定型性》ですね。

《錯乱》を内包する体系を理性的に追い求めた人といえば、フランシス・ベーコンです。彼はモンテーニュが考案したエセーという文学形式を採用することで、一篇の主題における記号論的自由放任主義、すなわち集中と拡散といった相反する牽引力をコントロールしつつ、事物の性質にそなわる《脱定型性》を処理するという方法を、たぶん、実践しました。

これ、いったい何の話かと思うでしょ? 実はですね、御前田あなたの面白さってなんなのかなあと、さっきお昼ごはんを食べながら考えていたんです。この人の文体というのは常に《おそれとおののき》でぶるぶると震えているようにみえますが、この《おそれとおののき》のヴァイブレーションが揺るがそうとしている当の対象って、つまるところ《定型》なんじゃないかな、と。

ちなみに《おそれとおののき》はキルケゴールの本のタイトルですが、キルケゴールには「人間は有限性と無限性との、時間的なるものと永遠的なるものとの、自由と必然との、綜合である」という一節があります。この無限性という概念が、有限的存在である人間からみたとき《脱定型性》としてしか認識されないというのも、興味ぶかいことです。


人生のさんさんななびょばいおれんす  柳本々々

2016-10-04

空をゆく深呼吸



気球というのは、丸出し、という形容がもってこいの存在感をふりまいているが、あれは一体どういうことなのか。しかも、あっちへいったり、こっちへいったりと、ふらふらしているさまが絶妙に愛くるしい。わたしが愛せるかどうかを差し引いてみても、気球は愛の乗り物にちがいない。だって期待で膨らんだ肺のような袋にですね、籐のバスケットをくくりつけて天空を舞い上がったかと思うと、もうそのあとは風まかせに流されるしかないのだから。

気球がめざすのは《どこか》ではなく、いつでも単に《ここではない場所》だ。そしてこの《ここではない場所》の連続体はこの空を《どこでもない場所》のパッチワークにしてしまうだろう。もともと風船には深呼吸がぷかぷか浮いているみたいなプネウマめいた哲学情緒があるけれど<要するにあの物体は《no-where》を《now-here》に出現させる愛の技法であり、動力は、夢見心地な吐息だということ。


世の中はいさともいさや風の音は秋に秋そふここちこそすれ  伊勢

2016-10-03

風に吹かれて



きのうのつづき。給油スタンドに赤い船が停まっている。これから釣りにゆくようだ。

友人の話によると、彼女が子供だったころは船を運転するのに免許が要らず、よく家族で船遊びをしたそう。今でも15m以下のボートなら講習のみで誰でも運転できるらしく、停泊所はこのように自家用ボートだらけ。そういったわけで、帆柱のガムランも、なんともいえず素晴らしい音を奏でるのである。


灯台になりたい秋は目をつかひ  鴇田智哉

2016-10-02

空のカモメ、海のガムラン


毎朝、日が昇りはじめるころ、おびただしいカモメの鳴き声とともに、ガソリンの匂いとガムランの響きが海からアパートへと届く。ガソリンは停泊所の給油スタンドから。そしてガムランの正体は、停泊所にひしめく小舟の帆柱に、風に吹かれた索具のあたる音だ。

人の手を介さない、ゴーストリー・サウンドの愉しみ。

愉しみは風のあるかぎり日中もつづく。ふとこのサウンドを誰かと分かち合いたくなる。こういった、なんでもないことこそ伝えるのがむずかしいと知りながら。ところが、ル・アーヴルの向かい側にあたるイギリスの海岸で、わたしの聴いたのと同じ音をせっせと録音していた人がいたらしい。なんという幸運。そのお陰で、いまこうやってそれをお聴かせすることができるわけです。



2016-10-01

江川卓と、とまどい。


カンフー目線で見てわくわくするプロ野球投手というのが昔はやたら多かった気がする。村山実とか、稲尾和久とか、江川卓とか。江川くらいになると映像も豊富なので一時期むさぼるように見ていたのだが、足腰に精度の高いゆらぎがあり、粘りと伸びとが抜群で、球が手から抜けたあとの仙骨の当たりがふわっと柔らかい。投げ終わったあと動作に余韻がたっぷり残るところや、合気のような敵との間のはずし方にもきゅんとくる。

そんなわけで、夫が家にいない夜は「さて。江川でも見るか…」とヴィデオを流しつつ武術の稽古をする。夫が家にいる夜も、ざっと年に4、5回はお世話になっているはずだ。達人の身体運用を観察しながら体をうごかすと、自分のパフォーマンスもそれにひっぱられて猛烈に上がるのがわかる。怖いくらい。

わたしの煩悩と身体を煽るという意味でこのように完璧な江川ではあるが、弟子になりたいかと訊かれると正直とまどう。江川が師匠というのは、なんとなく想像したくないシチュエーションだ。だからきっとそういう時は「いえ、郭泰源さん、とかの方がいいです」と答えるのではないか。日和って。