2016-09-30

隙き間をのぞきに


いつもスマホで写真を撮るのだが、地中海の日差しの強さに毎度おののいてしまう。はっきり言って、非日常的である。コート・ダジュールでこれなのだから、アルジェリアでは太陽のせいで殺人を犯すくらい道理にちがいない。このブログでちょっと涼しそうな色のもの(これとかこれとか)は大抵ノルマンディーの光景。青がずっと優しい。

⌘ ⌘ ⌘ ⌘ ⌘ ⌘

旧市街にはいっぱい隙き間がある。その切れ込みへ視線をすべり込ませつつ、ぶらぶらと散策。空を盗み見、古本屋を覗いたあと、行き止まりのパン屋の前で立ち止まってじっと考え込む。古本屋というのは一体どういった訳で世界中どこへ行っても同じ雰囲気なのだろう。時をかける装置みたいなものでお互いに繋がりあっているのだろうか。




2016-09-29

〈忘れられた世界〉のこと



朝、目を覚まして思ったこと。なにかを考える、というのではなく、思考の空間そのものがふわっと広がっている感じ。自分の声がはっきりとは聞きとれず、単にコトバの音楽として鳴っているっていう、そういう感じが割と好きらしい。

記憶についてもそう。なにかを思い出す、というのではなく、記憶の空間そのものに埋もれてしまって、周りにあるモノがなんなのかちゃんと見ないまま、ただその光に立ち会っている、というのがいいんですね。

 記憶の空間のなかに埋もれているときは、まるで耳と耳とのあいだに静かに座っているみたいだった。この「耳と耳とのあいだに座る」というの、アイヌの表現で死を意味するんですよ。

〈忘れられた世界〉は、もうただ、どこまでも、どこまでも、どこまでも、どこまでも、どこまでも、どこまでも、どこまでも、どこまでも、どこまでも続くのである。こういえば、あなたにも感じはわかるだろう。わたしたちのところより、遥かに大きい。(ブローティガン『西瓜糖の日々』)

2016-09-28

「三句の渡り」理論とハイカイザシオン




9月24日の週刊「川柳時評」で野間幸恵の俳句「琴線は鳥の部分を脱いでゆく」について小池正博がすごく面白いことを書いている。

この句を私は『琴線→鳥の部分→脱いでゆく』の三つの部分に解体して読んでいるのだが、それを連句の三句の渡りに変換すれば、たとえば次のようになるかも知れない。

琴線はわが故郷の寒椿
鳥の部品を包む冬麗
うすもののように記憶を脱いでゆく

前句と付句の二句の関係性、三句の渡りの関係性を、もし一句で表現しようとすれば、線条的な意味の連鎖はいったん解体され、日常次元を超えた言葉の世界がそこに成立する。そのことによって、作品は広い時空を獲得することができる。一句によって表現できるスケールは本来、大きなものであるはずだ。

このあと小池はこの「三句の渡り」理論の遠源を攝津幸彦と予想し「路地裏を夜汽車と思う金魚かな」を例として出している。これを読んで思ったのは、小池の「三句の渡り」理論がウリポ(潜在的文学工房)の本に出てくる「ハイカイザシオン」に少し似ている、ということ。ハイカイザシオンというのは、長い詩の脚韻だけを拾って発句にする試みで、レイモン・クノーがステファヌ・マラルメの詩を俳諧化したものが有名である。たしかにマラルメの詩はむずかしすぎる上にながすぎるので俳訳したくなる。こんな風に。

Le vierge, le vivace et le bel aujourd'hui
Va-t-il nous déchirer avec un coup d'aile ivre
Ce lac dur oublié que hante sous le givre
Le transparent glacier des vols qui n'ont pas fui !

純潔にして生気あり、はた美はしき「けふ」の日よ、
勢猛き鼓翼の一搏に砕き裂くべきか、
かの無慈悲なる湖水の厚氷、
飛び去りえざりける羽影の透きて見ゆるその厚氷を。(上田敏訳)


Aujourd'hui
Ivre,
Le givre
Pas fui !

けふ酔ひて霧氷逃げだすこともなき(拙訳)

図らずもソツのない訳になってしまったが、たしかにこの方法を意識すると、表面上は突飛でありながらも次元を越えたどこかで繋がっているような、連断性の豊かな句が生まれるかもしれない。

なおハイカイザシオンについてはクノー著『棒・数字・文字』に詳しい描写がある。またこの方法を実際に考案したジャック・ルーボーオクタビオ・パス、エドアルド・サンギネッティ、チャールズ・トムリンソンらと行った西伊英仏連句をそのまま『連歌』というタイトルで出版しており、さらに自著では「水無瀬三吟」についても幾度か言及しているようだ。


2016-09-27

風と共に去りぬ


「青ばかり使う人」として有名なイヴ・クライン。本人によると、あの青は故郷ニースの空の色なのだそう。

ニース近現代美術館にはイヴ・クラインのコーナーがあり、彼の作品、資料、写真が展示されている。その中でわたしのいちばんのお気に入りは、彼が講道館から授与されたという柔道四段の段位証。これは1954年当時における欧米人の最高位だった。貴重な証書だ。ちゃんと「イヴ・クラン殿」とフランス語発音で名前が記されてあるのも嬉しい。下の写真はクライン自身がとても気に入っていた一枚で、こちらで手にする彼の資料にかならずといっていいほど収録されているもの。


それはそうと、書こうと思ったのはクラインの作品タイトルの話。《人体測定》《空中浮遊》《気体の彫刻》《空気の建築》など、彼の作品というのはかなりの割合で空間の把握がテーマになっている。《気体の彫刻》なんて青い風船を空いっぱいに飛ばすだけ。でも彫刻ってなんだろうみたいな思いわずらい(?)をまるで感じさせないところが好きだ。風と共に去る彫刻。素敵じゃないか。

風をみるきれいな合図ぶらさげて  阿部完市


2016-09-26

「おがたまの花」覚書



きのうの午後はふと思い立って、四ッ谷龍『夢想の大地におがたまの花が降る』をぱらぱらとめくってみた。そしてさいごの連作「おがたまの花」で手を止めて、まるでよその土地の言葉を読んでいるみたいだ、と思いつつじっと眺めた。

この「よその土地の言葉」という感触は、ひとつには異国のそれで、またひとつには異界のそれを指している。

●異国の言葉
「おがたまの花」には外国の詩を俳訳したような硬質な品、一枚の薄紙をはさんだような手触りがある。この連作は、原詩も読んでみたい、という倒錯的な欲望をかき立てる。

●異界の言葉
芥川龍之介に陶淵明や王維による桃源詩の俳訳がある。


桃咲くや砂吹く空に両三枝  芥川龍之介
桃咲くや日影煙れる草の中
桃咲くや泥亀今日も眠りけり
桃咲くや水に青きは鴨の首
白桃はうるみ緋桃は煙りけり
川上や桃煙り居る草の村

四ッ谷は〈夢想の大地〉という異界を桃ならぬおがたまの花に託して描いた。そしてそのとき芥川龍之介と(そしておそらく多くの俳人と)決定的に違ったのは、別天地の活写を神話的文脈におもねらず、その代わりに数学用語をつかって成したことだ。

神話の援用というのは難しいもので、しばしば作品をワンパターンな救済の物語(疑似宗教)に陥らせてしまう。その点、数学用語をもってきたのは四ッ谷の創意であり、またこれを用いての記述は、別天地というものの併せもつ非人間的な美しさと冷たさとをよく表現している。

念のため補足すると、20世紀以降の数学はもはや純粋な真理ではなく、任意の形式にすぎない。だからここでの数学用語のメリットは、つまりプラトニズムに傾倒するたぐいの解釈を句がよせつけない、という点にある。四ッ谷の書きぶりもまた、決して象徴主義的でも黙示録的でもない描写に冷静に留まることによって、真理を性急に掴み取ろうとするのを慎んでいるようにみえる。

おがたまの降る世界。それはいかに手の届く場所にあろうとも厳然たるよその土地だ。あるいはそれは〈夢想の大地〉である以上、にんげんにとって〈死の写像〉といえる場所なのかもしれない。


木(ぼく) A のおがたま B へ写像せる  四ッ谷龍

2016-09-25

うわの空に


東郷雄二氏のサイト「橄欖追放」を読んでいたら、西橋美保の「多産系でも晶子にや負けるが水子だつて人数にすればふみ子に負けない」という作品が紹介されていた。氏の感想は「いかにも奥村晃作が喜びそうな歌だ」といったもの。たしかに西橋美保にはそういった系統の味わいもある。これなんかまさにそう。

人語まだ解せぬ赤子が一念でひいきの絵札を正しく取りぬ  西橋美保 


きのうのつづき。6階のベランダから眺めると、空というのは広いようにも、いきどまりのようにもみえる。とおくで小さなかたちが流れているときなどは、その音のなさがふしぎだ。さらにふしぎなのは、喧噪に溢れ返っているはずの道路からも気がつくと音が失せていること。たぶん空を眺めるとき人は、周囲の一切を断ち切れ、とおのずから命ぜられるのだ。

心ここにあらずを頑なに実践すること。この世界を受け流して、うわの空でありつづけること。

われの住むマンション八階うはのそらまことにわれはうはの空に住む  西橋美保

2016-09-24

虹にありつく


いま住んでいるアパートは9階建てで、わたしはその6階で暮らしている。ここはこれまでの人生の中でいちばん高いところにある住まいだ。

室内は天井と壁が白い。床も白い大理石でできている。アパートの前には道路標識が立っている。まいにち昼下がりになると、その標識にあたった太陽の光が上向きに跳ね返って6階の大きな窓ガラスを突き破り、こんな風に天井に虹をつくる。


いまだ目を開かざるもの文字と虹  小津夜景

虹が立つと、この室内が空気の立方体であることを思い出す。思い出すというのは過去が此処に届くことだ。予期しなかった葉書のように。

ユルスナールは「生を愛するとき、人は過去を愛するのです。なぜならそれは人間の記憶のなかで生きのびた現在なのですから」と言った。わたしがなおも思い出しているあいだ虹は天井を渡り歩いていた。そしてあたりに溶けこみ、いつしか室内はふたたび余白にもどった。

2016-09-23

謎彦と594俳句のカンタータ

≫謎彦シリーズ (1) (2) (3) (4)

わたしは謎彦が好きだったものの、俳句や川柳に興味をもつ機会にめぐまれず、彼の俳句を読んだこともつい最近までなかった。で、今回はやっとその俳句。ただし575調ではなく594調の演奏形式である。下の連作は句数が多かったので、リミックス気分でセレクトしてみた。

「五九四」調のための小カンタータ(抄)  謎彦

君子とはあやふきに愛さるる(こなゆき)
道を説く君を繰りたたねて(天の火)
炎上のかゆみにたへかねる(二の丸)
ナンネルルルとヴォルフガンゲルルルルの(六道)
病む夢を枯野でうけとめる(てぬぐひ)
東風吹かば雅楽師といさかふ(カフェイン)
赤いくつ履いてた女の子(てゆーか)

謎彦ならではの〈愛と修羅〉といった感じ。ここまでくっきりした個性をもっている人は本当に稀だと思う。さてこれをどう楽しむかというと、謎彦本人がどう感じるかわからないが、やはり先日の「対位法練習曲」と同じく紀野恵の作品と併せて読んでみたい。だって、こうやってふたつを並べると、まるで生き別れになった異界の姉弟(ナンネルとヴォルフガング?)みたいなんですもの。

   紀野恵

つゆの雨知らぬまに忘れゐし人は(ふあん)ファゴット吹きでありしよ
つかのまの月の光に漁られ(あいよ)滅んでゆくつみとがも
ぎんいろのペットボトルが選みゆく(ふかひせい)よるの波のまの道
けしのはなもやう壁紙炎え立つて(しふねし)あかずのまのゆふぐる
使ひ魔をつね先立ててまつすぐに(きぐ)あゆむかなはららく茨

2016-09-22

うごく、はいく。 - 可塑性について (4)



≫ 可塑性について (1) (2) (3)

俳句がうごいていることがある。あんなに地面を愛している彫刻ですらうごくことを思えば、言葉がうごいたってどこにも不思議はない。でもうれしい。

うごく彫刻モビール。モビールのいいところ。3次元空間を2次元平面が浮遊しているところ。浮遊しながらも頼りなげではなく、むしろくっきり原色で元気そうなところ。

モビールのうごきのひみつをまとめると、案外しっかりした骨と、バランスと、空気だ。この全体の感じを忘れないでいよう。


H(すい)は左He(へー)は右端秋の舟  長嶋有

2016-09-21

ジャック・デリダ死去をめぐるフランスの新聞(2)


きのうのつづき。ル・モンドは号外を折り込んできた。全10ページ。しかもリベラシオンは7ページの中に広告が2つ掲載されていたが、こちらは一切広告なしの10ページである。活字も小さく、もはや一冊の本といっていいほどの量。


ここまでの追悼ぶりを目にすると、まるで国中に名の知れた有名人みたいに思えてくるが全然そんなことはない。はっきり言って無名人である。どのくらい無名かというと、デリダが生きていた晩年、わたしはカルチェ・ラタン(大学地区)に7年ほど住んでいたのだけれど、その間たった一人しかデリダの名前を知っている人に会わなかったくらい。その人はイスラエル出身の物理学者で、イスラエルには『マンガで読むデリダ』って本があるんだよ、と笑って教えてくれた。うーん。どんなマンガなのか少しも想像がつかない。

リベラシオンと比べると紙面が地味で退屈。なので最後の2枚、書斎の光景をズームアップにしてみた。

2016-09-20

ジャック・デリダ死去をめぐるフランスの新聞(1)


衣類の整理をしていたら、デリダが亡くなった時の新聞が出てきた。


死去が2004年10月8日。わたしが彼の病気(膵臓癌)を知ったのは同年7月くらい。ル・モンド・ディプロマティークのインタビューで彼みずから告白していたのを読んだ。そのインタビューはたしかテロリズムをめぐる主題で「わたしは今でもヨーロッパ中心主義と闘っている」と語っていたのも覚えている。

ネット検索したら死去をめぐる報道の様子がひとつも見当たらないので、リベラシオンとル・モンドを資料として自らアップすることにした。本日はリベラシオン。ご覧の通り1面から7面まで完全にデリダ追悼特集だ。当時のフランスのジャーナリズムが>この死を最大級の事件として扱っていたことがわかる。


2016-09-19

花影町から東雲町へ



京都に住んでいた頃は七度引越しをした。最後に住みついたのは紫野(むらさきの)という場所。で、最近はこちらのサイトで見た西橋美保の歌がとても気に入っている。
夢前の川面に映りしみづからの影に触れつつ消えてゆく雪
春の雨満員のバスはめぐりつつ花影町から東雲町へ
何を見てわれは病みしか花のころ鷹匠町の眼科に通ふ
お蜜柑を買ひに出でしが紺屋町あたりで日は暮れ雪に降られる
夢前川(ゆめさきがわ)、花影町、東雲町、鷹匠町、紺屋町。これらはすべて姫路市に実在する地名。こうやって並べるとたいへん魅力的である。

当地には美しいばかりでなく変わった地名も多いようだ。古二階町(こにかいまち)、橋之町(はしのまち)、神種(このくさ)、書写台(しょしゃだい)、恵美酒町(えびすまち)などなど、こんな字面を詠み込んだ連作をつくったら楽しそうである。

それにしても——なんて良い歌なのだろう。この世に生きて在ることのさびしさがそっと胸に迫る。技巧派なのに、そうは感じさせないところも嬉しい。

西橋美保は「短歌人」所属。ここは永井陽子を筆頭に自分好みの歌人が多い結社だ。
ストローで顔の映つた水を吸ひそのまま顔ごと吸ひ込んでしまふ  西橋美保

2016-09-18

ひこうきの泳ぐ室内


つややかな身体。ぬぐわれた表情。すべらかな動き。はらのふくらみの白さ。胸びれ、背びれ、尾びれ——ひこうきという物体は鳥よりも魚を思わせる。

さわひらきの作品『dwelling』では、1分10秒あたりから旅客機がおもむろに動きだす。ラストシーンは《タブラ・ラサとしての海》から《スーヴニールとしての空》へと切り替わったようで、とても印象的。

長き夜の魚のはらの心地よし  田中惣一郎

2016-09-17

水と〈裂く〉こと


『猫蓑通信』80号で小池正博氏が「関係性の文学」と題してこんな川柳を紹介している。


水面にひびかぬように紙を裂く  加藤久子
魚裂く真昼私も存在する
レタス裂く窓いっぱいの異人船

裂くことがもたらす、自己の際立つ感覚。物質は裂けば裂くほど小さくなってしまうが、それとあべこべに裂く人自身の存在感はどこまでも大きく深まってゆく。

ところで、この裂くという行為が上記の句群において「水面」「魚」「レタス」「異人船」といった水の縁語(レタスは96%と野菜の中でもっとも水分が豊富)と関係づけられていることはおそらく偶然ではない。

はとばまであんずの花が散つて来て船といふ船は白く塗られぬ  斎藤史

この歌には「異人船」の句とよく似た情趣がある。そしてやはり、あんずの花弁のとめどなくこま切れになってゆく光景が水の縁語と結びついている。

〈水の気配の中で裂く〉とき〈わたし〉が予感するのは、この世に存在する〈わたし〉自身の深さと、決して知ることのないあの世のことだ。水(鏡)を生/死の境界とするのは昔からある見立てだが、上の作品群はこの見立てに素直に従うことで安定した魅力を手に入れた。もっとも、この見立てにそのままの状態では従わない作品というのも当然ある。たとえば「水」「裂く」「あの世」のバランスを巧妙に組みかえ、さらに語り手自身のマニフェストをこっそり紛れ込ませた俳句がこれ。

死がふたりを分かつまで剥くレタスかな  西原天気

2016-09-16

ふくらむ肺を思うとき


窓ガラス越しに眺める音のない喧騒。うわずったように泳ぐカメラ。まばたくたびに切れ切れになるパレード。色褪せた空気人形。黄ばむ光。白ずむ空。

音楽というやわらかな空白。フィルムという闇に似たもの。記憶という浅い呼吸。


としまえん秋という短きものよ  長嶋有


2016-09-15

なんだこれはへの愛


1970年前後の〈空気構造〉にまつわる作品には、文字通り浮き浮きするようなのがいっぱいある。が、空気というのは「エコの中のエコ」ともいうべき素材ゆえ、ちょっと油断すると、いきなり紋切り型の政治的言説に絡めとられるのが厄介なところ。

その点、ハウス・ルッカー社の空気づかいは当時の趨勢だった文明批判やらヒッピー・ムーヴメントやらの文脈をふわっと回避していて嬉しい。下の写真は外界を遮断して自己の内面世界を省察するためのヘルメット。これ、肺胞をイメージしているそう。さすがは空気系である。こんなものをかぶって自己を省察できるはずのないところがバカバカしくてたまらない。



あとですね、堅固な建築物から空気の膜がぷうっと吹き出していたらかわいいよね!といったコンセプトで同社の開発した「空気宇宙(Pneumakosm)」も、生命体の気ままさというか、無駄の多い感じというか、能天気なワンダーというか、ええとつまりは、

何だこれこのいきものを愛している  川合大祐

2016-09-14

ゆらゆらする装置のある風景



フランスで現代アートを網羅的に知るには、ポンピドゥー・センターとグルノーブル美術館が便利。このあいだ触れたカザール・カーンの椅子はそのどちらでも見たことがあるのだけれど、思いのほか日本ではこの作家が知られていないようなので、ジェーン・バーキンが座っている写真を一枚貼ってみます。下の写真は、水にうかぶ空気の家でくつろぐカーン一家。

世界中ゆらゆらにする装置買う  竹井紫乙 

2016-09-13

謎彦、その文体のエチュード

≫謎彦シリーズ(1) (2) (3)

謎彦「甲賀流のためのエチュード」は、この作者にしては珍しく「若者らしい」作品だ。


 「甲賀流のためのエチュード」   謎彦

まきものをくはへてをればまきもののにがみが舌をはひずりまはる

スパイスのとれる草木を束にして石田ゆり子の尻へぐぐつと

飛行機とビルが心中するさまをぼくたちは折り紙であらはす

  巻物の正体は、まさか大宝律令?
租庸調おひはぎながらコンビニもないころなりに愛しあつてた

  天地初めて発けし時、高天原に成れる神の名は、天之御中主神、
  次に高御産巣日神、次に神産巣日神。此の三柱の神はみな独神と
  成りまして、身を隠したまひき。

天地(あめつち)のあちらこちらでメーリングリストみたいにだまつてしまふ

そのへんにころがしてある森雪を小型二輪に改造しやう

ルービック・キューブの中にしあはせな老廃物の一部屋がある

 BOMB!     BOMB! BOMB!
 BOMB!    BOMB!      BOMB!
つれてつて東村山四丁目、東村山三丁目、ワ〜オ!
 BOMB!       BOMB!
 BOMB!      BOMB!

S極にむらがる鉄はさしあたり加藤諦三ほどえらくない

   レーニンならこのあひだまで冷蔵保存されてゐた
「人類はみな兄弟」と宣るひとを特殊メイクで鳩に似せやう


ざっと一望するに、中三句から下の句にかけての文体が、若者短歌らしい情緒を巧みに表現しているようす。またギミックにかんしても、三首目の「ぼくたち」という言葉づかいに漂う〈無垢性〉、テロという重量感の際立つ現実を「折り紙」というフラジャイルな質感によって把握する〈裏返しの全能感〉、あるいは四首目の「コンビニ」と「愛」といった恥ずかしいとりあわせにみられる〈類型的な青春性〉、あるいは五首目の「メーリングリストみたいにだまつてしまふ」に現れる〈みんなぼっちの感覚〉と、至るところたいへん青臭い。ほかには「ルービックキューブ」の歌に内包されていそうな〈ナイーブな傷つきやすさ〉も吟味してみたいところか。で、言うまでもないことだが、もとより謎彦はこうしたギミックを注意ぶかく相対化しつつ詠んでいるのであり、まただからこそ「ワ〜オ!」とドリフネタの炸裂する単純で馬鹿馬鹿しいクライマックスがじーんとくる。

ちなみにこの中でわたしがいちばん好きなのはコンビニの歌。歌自体もスマート(?)だし、なにより「巻物の正体は、まさか大宝律令? 」の詞書がかわいいから。

2016-09-12

つかのまの湧出物、猫のゆりかご - 可塑性について (3)

≫ 可塑性について (1) (2)

きのうのブログで「やわらかな幾何学」という言葉が頭に浮かんだとき、自分が生まれてはじめて書いた俳句に関する文章が高山れおなの「三百句拾遺」論だったのを思い出した。なぜそんなことを思い出したのかといえば、その論につけた「つかのまの湧出物」というタイトルが、つまるところ「三百句拾遺」に内包される可塑性を指していたことに気づいたからである。しかも論の結末あたりを読むと、あやとりをめぐる閑想と基本的に同じことしか考えていない。

姉いつまで地に醴あまざけ)を流す旅  高山れおな
(…)最後にこの本を読むにあたって留意されるべきことを付け足しておくならば、ひとつは(論の繰り返しを含むが)いかに完全無欠な外見を具えていようともこれらの句群が回想の力を借りた「地すべり/地ならし」の過程に析出されるつかのまの湧出物であり、それ故それらの句には別の世界、別のあり方、別の美しい一句が潜在している(つかのまの湧出物/高山れおな「三百句拾遺」、『俳諧曾我』所収を読む


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昨日の記事に少し書き足し。ハヤカワ文庫版のカート・ヴォネガット『猫のゆりかご』では装画のモチーフにあやとりが使われている。このSF小説でヴォネガットはシカゴ大学から人類学の修士号を授与されたそうだが、Australia's audiovisual heritage onlineで紹介されている『真珠と未開人』(Pearls and Sauvages,1921)というフィルムにこの「猫のゆりかご」を編むシーンがあった(2:10あたりから)。だから何ということはないのだけれど、ええと、ヴォネガット好きの人のための豆知識だと思ってください。

 

2016-09-11

あやとりを手放すとき



折り紙の世界はとても奥深いらしい。そういうのは傍から覗くだけでもわくわくするので、プロの作品集を開いてみた。ところがほんの数ページで「あ。これは違う」と感じた。折り紙というのは、どれもこれも形がよく出来すぎている。そして作った〈もの〉がそこに残る。

あやとりを手放すときのつむじ風  兵頭全郎

あやとりは、どんな形も謎めいている。それはやわらかな幾何学さながら次々とその形を変え、またそっとテーブルにおいたときは古代人のらくがきにもみえる。まるでわたしたちの想像力を試しているかのような。そう、要するに「イメージする力」がこのあそびの本質なのだ。だがそれにもまして極上なのは、あやとりでは作った〈もの〉を必ず壊してしまうこと。この途方もなく純粋な無所有性。

あやとりの快楽というのは、そのイメージの透明度と、物質的な達成感のなさにあるのかもしれない。


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今日ぐうぜん見つけた国際あやとり協会(International String Figure Association)のサイトにある「世界のあやとり」が興味ぶかい。少しだけ画像を借りてきた。いちばん上のイラストはイヌイットの「美しい虹」という形。下は三種類の「星」。文化人類学というのも不思議な学問ですね。

フィジー「星」
パプア・ニューギニア「天の川」
ナバホ「大きな星」

2016-09-10

秋風のすみか - 可塑性について (2)


手にならす夏の扇とおもへどもただ秋風の栖(すみか)なりけり  藤原良経

この歌はぴしりと決まっている。それでいて、そのぴしりという音が鳴り止んだ時には、既にして一切が変質し終えているであろう脆さを孕んでいる。

あの夏の数かぎりなきそしてまたたつたひとつの表情をせよ  小野茂樹

瞬間を焼き付けたかのようにみえるこの歌も、その背後には、屹立を本質的に否認する和歌の伝統が陽炎のようにゆらめいている。このことは掲歌を含む歌集のタイトルが『羊雲離散』である点からも伺い知ることができるだろう。秋の象徴である羊雲が引き裂かれ、四散し、一切がちりぢりとなるに通ずる心象こそ、 この歌に隠された本当のモチーフだ。

2016-09-09

鳥をめぐる断章


エリック・サティはグランドピアノのことを「しっぽのあるピアノ」と呼んだそうだ。このことを知ってからというもの、そんなに意識していなかったグランドピアノが見違えるほど輝いて見えるように。

できうる限りの沈黙。その沈黙からふいにはじまる、指先と鳥との諸関係。そして風と音楽。

あやとりを手放すときのつむじ風  兵頭全郎

抽象的な像を結んでいた糸が指先からほどけてゆく瞬間、そこに風を発見するといった、たいそう無為でたわいない感覚。

2016-09-08

クリスチャン・ラッセンというアポリア


日本には「ヒロ・ヤマガタ問題」やら「クリスチャン・ラッセン問題」やらといった前世紀からのアポリアがいまだ解決されないまま現存しているようですが、個人的にヒロ・ヤマガタに関しては芸人であると理解しているので割と心は穏やかです。

で、一方のラッセン。これをどう位置づけるか。知的な切り口を好む人には『ラッセンとは何だったのか?』を読んでもらうとして、どちらかというとわたしはそうですね、ここ2、3年くらいでしょうか、いちど清水の舞台からとびおりる覚悟でラッセンにどっぷりつかってみようかなという思いがあって。このアルバム・ジャケットに出会ったせいで。



この何周か回っちゃった感じ…ラッセン解釈がこんな凄い境地に達していたとは。もしも自分が中学生だったらたぶんこの気持ち悪さにはまってしまったと思う(よかった、もう大人で)。とはいえラッセン・ブームの頃の傷がいまだ癒えない人が見たら、このジャケットも「もうやめて。死んじゃう…」って感じですよねきっと。ごめんなさい。でもね、いちおうこちらにアルバムの音源があるのですけど、こちらは嘘じゃなく流しっぱなしにすると心地良いです。押し付けがましくない愛嬌と隠れ家的な緩さとが相まって、リラックスできます。

ラッセンの描く海は、いいことずくめの海だ。
みんなの大好きなもので埋め尽くされた、ご都合主義的な海だ。
このいいことずくめな画面構築こそが、ラッセン絵画を特徴づけるものなのではないか。万人にとっていとおしく、見目に心地いいイコンや表象が、無節操にひたすらサンプリングされていく。その手つきはアプロプリエーションとも言うべき暴力性を内包しており、視覚的快楽の追求においては迷いがなく、決然とし、戦闘的でさえある。
ラッセン芸術に触れることで、くじらやいるかがいかに賢くて愛らしい人類の伴侶であり、軽はずみに殺すことの許されない生き物かということが自ずから明らかになってくるだろう。これは、ラッセンを通して目覚めた人々によるニューエイジのトリビュートアルバムだ。
(本稿は椹木野衣『シミュレーショニズム』と『日本・現代・美術』の問題意識にピギーバックし、日本の行き詰まった現代ARTの次の一手を模索するものである)

2016-09-07

可塑性について(1)


俳句を評するときの言い回しで「語がうごかない」という褒め方があります。

いきなりチャート式参考書みたいな話題でごめんなさい。もちろんこの褒め方が無反省に使われる場など、そうそう世間に存在しないことは承知の上で、単にこれから書く話のクッションにしているのです。

で、それとは逆に「語がうごいている状態で書くのを止める」にはどうすればよいか?というのが、割にわたしのしょっちゅう考えている懸案だったりします。さしあたり言語ではなく絵画を使って、これを可視的に説明できないかしら。と、そんなこんなで最近思いついたのが、ダ・ヴィンチが『絵画論』を書いたとき、25歳下のミケランジェロが「あの男程度の絵なら、うちの下男でも描くよ」と語ったエピソード。



彼らが競演したフィレンツェ共和国、ヴェッキオ宮殿大広間の下絵を見比べると、二人の性格の違いがわかりやすい。ダ・ヴィンチの描いた『アンギアーリの戦い』は構図、小道具、臨場感などが完璧にコントロールされた壮観なもの。まさに隙がないとはこのことだ、といった作品。いっぽうミケランジェロの描いた『カッシーナの戦い』はピサ軍からの奇襲を受けたフィレンツェ軍があわてふためく光景で、全兵あられもない姿、動作はてんでばらばら、顔もあさっての方を向き、あわてて靴下を履く者までいるという体たらく。これが「フィレンツェ共和国を讃える壁画」という注文に応えた仕事だというのだから、もう桁外れに度胸がある。ミケランジェロという人は〈不動の配図〉といった、お偉いさんに受けそうなわかりやすい名筆ぶりには心底価値を置いていなかったのでしょう。

2016-09-06

謎彦とメカゲーテ


謎彦の短歌を見て、連句風翻案を見て、さあ俳句について書こう、と思っていたのだが、やっぱり川柳を経由することにした。

もっともわたしは川柳を寸評するための語彙に疎いゆえ、1997年発表の「小組曲」より、いいなと思った句を抄出してみるにとどめる。

フランスが実在するとは限らない
奥さまは魔女、てつがくは電磁石
パソコンを開けてしばらく蛾のやうに
リカちやんをさらに脱がせて肝移植
UFOが濡れていたつてよいではないか
病める日も方位磁針と斬りあひを
イカロスの位牌ひとつを友にして
ゆるされてイスカンダルを撃ち墜とす

うーん。20代半ばにして、これだけいろんな系統の作風を押さえている(しかもさらっと自作できる)なんて、この人はどれだけ本を読んでいるんだ? しかも単に面白いのではなく、いずれの句にも川柳らしさがみっちりつまっている。怖ろしいことよ。とりわけ気に入ったのが次の句。

ひややかに踊るゲーテとメカゲーテ
残響がここで背面跳びをする
成長を終了します [OK][キャンセル]

最初の句、「ゲーテ」という固有名がうまく効いているせいで、むずむずするような不条理感がある。この句を知ってからというもの「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」の「ギョエテ」がメカにしか思えなくなった。ギョエテはゲーテよりずっと強そうだし。

次の句は「残響」という、実体のない、ただ消えてゆくばかりのものに、無理やりもうひとふんばりさせちゃうところが笑える。この〈絶対に不要と思われるひとひねり〉は川柳の醍醐味のひとつ。しかもこの句は文字どおり身体をひねっている光景なのであった。

で、最後の句だが、柳本々々から川柳を教えてもらい、「川柳スープレックス」でそれに親しみ、さらに川合大祐『スロー・リバー』を先日読んだばかりの自分としては、こういうあっけらかんとした闇を感じさせる作風がすごく落ち着くんですよ。家に帰ってきたみたいに。

つまりですね、これら三つの句から感じるのは、SF、背面技、暗黒の三つが、川柳におけるわがふるさとなのかもしれない、ということ。漠然とですが、そのように。はい。

2016-09-05

【おしらせ】石原ユキオと『オルガン』


○8月の『週刊俳句』に寄稿しています。

第486号◇B級ドリームランド的芳香 
石原ユキオ氏の短歌連作「アーモンドバター」についてのコメント。石原氏の短歌は下ごしらえ(語彙の吟味など)が入念なのに加えて、狂いのないリズム感による一首内での情報処理もみごとですよね。情景描写に関しても学ぶところが多いです。
第487号◇チューニングとプランニング  
こちらは『オルガン』まるごとプロデュース号の記事。「オルガンという言葉から連想することならなんでもOK」という鷹揚なテーマだったので、雅楽とアルヴォ・ペルトの相違について書きました(俳句の話に少しだけつなげています)。

○俳誌『オルガン』には最近よくお世話になっています。5号では福田若之氏が「『THEATRUM MUNDI』再読」と題し、私の「blog-俳句空間」での連載と「出アバラヤ記」とを併せて解読して下さっています。20頁に及ぶ論考です。また6号では座談会「視覚詩」にゲストとしてお邪魔しました。

○『オルガン』の公式ツイッターでこんなリンクを見つけました。この感想の締めに書かれていることは、まさにこの方の仰る通り。あの座談会ではちょっとした思いつきから、コロケーションのみならず発言の組み立てなども浅田彰を意識してみました。気づいてもらえて嬉しい。高円寺の和室でオルガンのみなさんとお喋りしながら、わたし自身も「ノスタルジー感じてぐっと」きてしまいましたよ。

2016-09-04

自由としての〈空気〉


昨日の『大頭脳』の話のつづきでカザール・カーンのこと。

空気を材料にするのが得意な人というのはたまにいますが、カザール・カーンもその一人。彼の持論は「軽くなることは美しくなること」で、土地や建築への従属からの解放と謳われている空気構造の家具「エアロスペース」(1968年)をつくったのもそういうことらしい。そのほか水に浮く家、シースルー自動車、竹製の自転車、どれをとっても〈定住〉という重々しさへの反抗(というか、すっとぼけ)が感じられる。

固定性、永続性といった〈不動の権力イメージ〉へのアンチうんぬん、といった教科書臭い解釈はとりあえず脇に置いて、わたしがわくわくするのは、彼のつくった奇抜な家具以上に、彼自身が自由な雰囲気を纏っているところ。

自由を訴えるのではなく、自由そのものを追い求めること。まじそれがアートっすよ。前者はいわゆる政治。〈政治としてのアート〉という概念はたしかにあるけれど、その路線で成功しているものは、やはり自由を(往々にしてアノミー的なまでに)希求している。本人の問題意識を作品が越えちゃっている、というか。あ、カザールの作品はこちらこちらで見られます。

2016-09-03

ほんものの鳥の人生


フランス映画『大頭脳』にはコケティッシュなしっぽの似合いそうなお嬢さんが出てくる。こんな子だ。



このシーンの美点は、ル・アーヴルの柔らかく儚い陽ざし。キュートな女の子がロープ技と絵に描いたようなお色気を披露するところ。カザール・カーンの大ヒット商品である空気椅子。その椅子に腰掛け、ぷかぷかとプールに浮いている男たちのなさけない姿。そしてカテリーナ・カゼッリの、強さと明るさと大衆性を備えた歌声。

百日、百時間、あるいは
百分をあなたがわたしに与えてくれるなら、
一度の生涯だろうと、百度の生涯だろうと、
わたしはあなたにそれを捧げ返す。
Cento giorni, cento ore, o forse
cento minuti mi darai;
Una vita, cento vite,
la mia vita in cambio avrai.

歌詞の翻訳(あまり信用しないでくださいね)に原詩をつけてみたのは、これがカラオケでも親しまれている曲だから(ニース人はイタリア語の歌をよく知っている)。たしかにイタリア語を全く知らない自分でも、いちど聴けばなんとなく口ずさめてしまう。老若男女に訴えかける歌謡曲の香りも強烈だ。

ともあれ、コメディー映画の「笑い」は開放的なフィーリングに満ちていてほしい。たとえどんなに深く鋭かったとしても、生命力にとぼしい「笑い」というのは絵に描いた鳥に「自由」と名づけるようなものだから。



2016-09-02

棘のあるお嬢さん


学生の頃、たまたま「ELLE」を開いたらマルグリット・デュラスのロング・インタビューが載っていた。

文中、唯一記憶しているのは「あなたの書斎からは海が見えませんね」というインタビュアーの質問に対し、デュラスが「わたしは一日中海を見ているような人間じゃないわ」と答えていたこと。それを読んだ当時のわたしは「なんなの、この奇妙なやりとり。海ってそんな何かの本質に関わるものなの?」とこれっぽっちも意味を解さなかった。

あれから20余年の歳月が経ち、いつの間にかじぶんが海ばかり見ているような人間になってしまっていることに驚いている。なるほど、こういうことだったんですね。


それはそうと、モナコの海洋博物館はアクアリウムが本物の海とつながっている。そして水槽をデコレーションする水中造園家の仕事がすばらしい。岩と植物の、考え抜かれた配置。造園家が水槽内のランドスケープを決め、じっさいに造形してゆく作業が館内のヴィデオで流れていたのだが、色とりどりの苔を寄せたブーケの上をほのぼのとゆきかう魚たちを目にして、こんな村で人生を送ることができたら、と震えてしまった。


とりわけ気に入ったのが、この写真でたくさん泳いでいる「棘のあるお嬢さん」という名のスズメダイ科の魚。すごくコケティッシュ。しっぽが。