2016-08-31

具志堅用高と渡辺二郎(とハヌマーン)



ずっと以前から、具志堅用高の腕の飛び出し方がとても人間離れしているなと思っていたのだが、先日ブログに書いた白猿ハヌマーンの存在を知ってからというもの、具志堅用高という言葉をつかうとき必ずハヌマーンの姿がセットで蘇るようになった。

わたしは具志堅のボクシングが好きではない。強すぎて対戦者がかわいそうになってしまうのだ。肩の回転も千手観音みたいで恐ろしい。全く計算が感じられず、つねに天然である。さらに、ここがわたしにとって最も残念なところなのだが、この人は相手をやたら深追いする。そんなにいっぱい殴らなくても勝てるのに、と見るたびに不気味になる。

と、このように大変ハヌマーンに似ている。

ところで具志堅のことを考えるときに必ず蘇る存在がもうひとつある。渡辺二郎が、それだ。この人はぜったいに相手を深追いしない。自然を定理化したかのごときエレガントな突きをくりだし、もっとも少ない攻撃で勝つ。そういった枠組を意識的に遵守しているという意味で、たいへん異色の人物である。弟子入りするならこの人がいい。

二郎さんのコンプリートDVDが欲しい。が、いろいろあったからまず出ないだろう。

2016-08-30

シュールとまどろみのあわいで


これまでに少なくとも2度、他人の作品の息づかいを自分の句に取り入れようとしたことがある。

シュールレアリズム昼寝をしてゐたる  中山奈々

ひとつはこれ。一読した瞬間わっと思った。なんて素敵なの。どうにかしてこれと同じ雰囲気で、このくらいゆらゆらした句が自分にもつくれないかしら。そう思い、この句のどこがツボなのかをざっと整理してみたら、こんな感じに。

印象的な固有名詞が冒頭を占拠し、しかも堂々たる風格で初句からはみでているところ。
2「シュールレアリズム」と「昼寝」とが隣りあうことによって醸し出される、まどろみのオン・エアー(=宙をさまよう)感覚。

堂々とはみでちゃう感じ。うとうとのオン・エアー。なるほど。たしかにこれは自分好みだ。よし、つくってみよう。

こうした経緯により、それから数日の間、わたしは〈印象的な固有名詞が風格をもって初句からはみでている、超現実主義とまどろみとのあわいに浮かぶ俳句〉をもとめて遠い世界に意識をあそばせつづけた……というとなんだか凄そうだが、単にいつも以上にぼーっと暮らしていた。そうしたら、ぽこっと下の句が生まれた。

しろながすくぢら最終便となる  小津夜景

静態性のつよい「シュールレアリズム」とうってかわって「しろながすくぢら」はかなり動態的な句になった。またそのせいで作品の色が別物になってしまった。でもこの句はまぎれもなく中山奈々の句に感銘を受け、それを自分なりのやり方で真似することで形となった言葉だ。

2016-08-29

空の飛びかた


スーパーマンの飛行原理についてはさまざまな研究があるが、あのシリーズの何がろくでもないかというと、スーパーマンが空気抵抗を最小化したポーズで空を飛ぶところ。なにゆえ寝そべって飛ぶのか。広い空を。せめて如来のように直立不動で飛ぶくらいしてほしい。超人なんだし。

タイの映画『ハヌマーンと7人のウルトラマン』(邦題『ウルトラ六兄弟対怪獣軍団』)に登場する白猿ハヌマーンは、そんな常識はずれのふるまいはしない。惚れ惚れするような「卍」のポーズで空をとぶ(やはりアメリカとは文明の尺が違う)。


この映画、前半は仏像泥棒に殺害された少年がウルトラの母の手によってインドの神である白猿ハヌマーンとして甦り、仏像泥棒を追いかけ回したあげく「仏様を大切にしないやつは死ね!」と指でつぶしてしまうお話。で、後半は、怪獣と戦う正義たちのパフォーマンス・ショー。よくバカ映画みたいに言われているけれど、なんというか、カンフー目線で見るとやたら学ぶことが多い(気がする)。それからタイ人の身体運用がとにかく面白いし、大道具もかわいいし、遺跡の雰囲気も好き。とくに最後の戦闘シーンはハヌマーンの血も涙もないふるまいがキュートです。

2016-08-28

週末のいなごまめ



海沿いの崖を歩いていたら甘ったるい香りを放つ愛らしい樹があった。一緒にいた女性が「これは地中海原産のイナゴ豆の木。とっても乾燥に強いの。イナゴ豆(キャロブ)は宝石の重さ(カラット)の語源なのよ。つまり1キャラットはイナゴ豆1粒分ってこと」と教えてくれる。

地面に落ちている鞘を拾い上げると甘い匂いが手にうつる。この辺の人は、これでニセモノのチョコレート菓子をよくつくるそうだ。あとリキュールも。アラブ人はラマダンの飲料にする。その女性が目の前で齧っていたのを見てなんだか自分も欲しくなり、アパートに持ち帰った。


中の豆はとても小さくて薄い。豆粒の大きさを見るとたしかに均一っぽい。1カラットなので1粒約0.2グラムということになる。


割るとこんな感じ。匂う匂う。顔を近づけてみたら甘い上にバター臭いので油分も豊富のようだ。色も綺麗だし、じっと見つめていたら、フランスだけでなくアフリカやアラブのエキゾチックなお菓子が頭のなかをゆるく駆けめぐる。ほわん、ほわんと。

2016-08-27

うさぎ城



うさぎ小屋という表現があるけれど、海岸沿いにあるこの城はうさぎ城くらいの大きさ。うさぎになって、こんな2階建ての城で暮らしたい。


うさぎ城の裏手にはごぢんまりとした芝がある。ここに四季の草花を植えれば、毎日朝摘みのサラダが食べられそうだ。あと城を護衛するゴリラの彫刻のうしろに木が一本あるようだから、その木陰でうたた寝もたしなむつもり。ひらいた本を顔に乗せ、齧りかけのにんじんを握りしめて。

2016-08-26

夜のエアポケット


よく知らない町の安宿のTVでぼんやり昔の映画を眺めるのって素敵だ。ましてやそれが深夜のB級映画だった日には、もはや放心のプールに沈んでゆくかのごとし、である。

今まで生きてきて一番感動した深夜のB級映画は、ストックホルムのビジネスホテルで見た『五福星』。TVをつけたらちょうどサモハン・キンポーと目があった。あの時は、うわっなんでここにいるの?と、世界の果てで朋友とばったり遭遇した気分だった。

ストックホルム&深夜のB級といえば Mitch Murder も外せない。時空の隙き間を埋めることだけを目的としたようなレトロシンセ・ミュージックと、どうみても二次創作にしか見えないプロモーション・ヴィデオとが織りなす彼の作品群は、1980年代の恥ずかしい急所をあっと声が出そうになるほどぶっすり突いてくる(frantic aerobicsなんて自分には少しも正視できない)。

高度大衆社会における脱文脈的な日常が、80年代の強烈な腐臭をふりまきつつ蘇生した、深夜のゾンビとしか言いようのない世界観。深夜の自室をエアポケットにするのにちょうどいい……と言いたいところなのだけれど、自室がないからそう都合良くいかないのよね。

2016-08-25

ル・アーヴルのディスコ



ル・アーヴルに住んでいた頃、この町を舞台にした映画を2本観た。

ひとつはアキ・カウリスマキ監督『ル・アーヴルの靴みがき』。これはたぶん良い映画なのだと思う。もうひとつはファビアン・オンテニアンテ監督『ディスコ』。こちらは愛すべき映画。殊に3日で作ったようなチープ・シネマに寛大な人、あるいはフランク・デュボスクやエマニュエル・べアールが好きな人にとっては。

この映画の話の筋は『フル・モンティ』のほぼパクリ。ただ主人公の男性が金を得る方法というのが、ストリップではなくダンス・コンテストの賞金を狙うといった部分だけ、ちがう。あと映画の出だしのテーマ曲が鳴り出すところで、上空から撮影されたル・アーヴルの町を眺めることができるのだが、全然フランスらしくなくて(ル・アーヴルの街並みはニューヨークを真似ているのである。人口は15万人しかいないけど)笑える。

それはそうと、ル・アーヴルのディスコには一回だけ入場したことがある。年にいちどの大学関係者の晩餐会がそこで催されたためだ。子供の頃からいろんな土地に移り住んできたけれど、ディスコで晩餐会をやる人々というのはこの町の住人より他に知らない。

で、その晩餐会だが、中央のダンスフロアを見下ろしながらその周囲にセッティングされたテーブルで食事をし、宴もたけなわとなったあたりでケニア人で空手家の大学長(強そう)が軽くスピーチし、そのあとは当たり前のようにカラオケ大会という運びとなった。こんな展開もはじめて。さいごは全員フロアに降りてのダンス・パフォーマンス大会。Bee Gees とか Earth, Wind&Fire とかいった、まさに『ディスコ』世代の音楽で。なんというか、それぞれの町に、それぞれの流儀があるのだな、と思う。

2016-08-24

謎彦と水の対位法


今日は謎彦の俳句を読もうかなと思っていたのだけど、やっぱりその前に他の作品を見ておこうという気になった。

下の引用は「対位法練習曲」という作品の第二楽章。漢詩を連句風に翻案したらしい。謎彦本人による注釈には「紀野恵さんの連作短歌『君を尋ぬる歌』は、この詩の一字一字を冒頭に置いた合計20首から成っており、そちらで既におなじみの方もおられるでしょう」とある。

ブログでの書きぶりを見るかぎり、おそらく謎彦はかなりの紀野恵愛好家であり、わたしが謎彦のブログをたまに見にゆくのは、実はそのことが大いに関係している。そっと小声で言うが、以前わたしは「流体領域 西原天気『けむり』を読む」という書評を「週刊俳句」に書いたことがあって、その折に「水と時間」なるタイトルの「君を尋ぬる歌」をめぐるエッセイをおまけとしてつけた。全くもって書評にそんなおまけが要るのかといった話だが、つまりわたしも相当な紀野恵愛好家なわけであります。

II  Andante
高啓「胡隱君を尋ぬ」

渡水復渡水 水を渡り 復(ま)た水を渡り
看花還看花 花を看(み) 還(ま)た花を看る。
春風江上路 春風 江上の路
不覺到君家 覚へずして君が家に到る。

春水を三段とびにわたるかな   謎亭
花のむかうは花またも花     彦麿
散るままに一力茶屋へ吹きよせて 謎亭
ふいと出くはす当家の家老    彦麿

さらりとして素敵。『幻 ~Do Minamoto Yourself~』とは全然違う。

ひとつ追記。わたしが引用する謎彦の作品はすべて、はるか昔に彼が運営していたサイトにあったもの(わたしはそのサイトを全ページ印刷して持っている)。彼は『塔』所属(だった?)らしいので、作品を紙媒体で読んでみたい方は『塔』に連絡をとればなんとかなるのではないか、と思う。

2016-08-23

〈世界〉の手前から


若いころの福田若之の句で有名なものというと、そのほとんどが〈世界の把持〉に関係しています。

  歩き出す仔猫あらゆる知へ向けて  福田若之
  春はすぐそこだけどパスワードが違う
  ヒヤシンスしあわせがどうしても要る
  君はセカイの外に帰省し無色の町

これらは知識、符号(シーニュ)、幸福、彩色といったブレークスルーによって世界が獲得されると語り手が信じている句です。ここには〈世界に対する確信〉ないし〈主体と世界との間の関係の絶対性〉というのが以前の福田さんにとって秀句を生み出しやすいモチーフであったことが割とはっきり表れています。

ところで、さいきんの福田さんの作品に対して、わたしは〈主体と世界との間の関係の絶対性〉から〈世界はいかにして主体へと開示されるか?〉といった視座に関心が移ってきたような印象を持っているのですが、そう感じていた矢先、こんな句を発見しました。

  てざわりがあじさいをばらばらに知る  福田若之

実はこれを読んだとき「福田さんは、本当にこの通りのことを言いたかったのかしら?」と少し考え込みました。この句は最初にあげた例と同じく、観察者が観察対象を把握しようとする句、つまり〈主客合一としての世界認識〉を扱っています。しかしですね、福田さんのふだんのエッセイの感じや、俳誌『オルガン』でのいくつかの試みや、この句にそこはかとなく漂う香りなどから、わたしは「もしかすると福田さんは〈てざわりという盲目性〉から〈知るという名証性〉に移行する瞬間の神秘的光景を書きたかったのでは?」と思ったんですよ。で、この推論を元に、この句に感じたことをメモしてみました。

1.「あじさい」は目的格をとらない方がいい。なぜならば目的格をとると、紫陽花と呼ばれる〈像の統一性〉をあらかじめ語り手が有していたことになり、〈盲目性からの、世界との衝撃的邂逅〉すなわち存在の開け(Lichtung)を体現できないから。
2.〈てざわりという感性〉が〈ばらばらという不安定な了解〉を経て〈知るという悟性〉に至る、といった構造をつくりだすためには、「ばらばら」という語が「あじさい」の前に置かれるのが望ましい。

この2点をふまえつつ〈盲目性の中、部分から全体へと開けてゆく存在の明るみ〉を表現するには、たとえば次のような改作が可能なのではないでしょうか。

  てざわりがばらばらにあじさいと知る (改作例)

この改作例が妥当かどうかはさておき、ここで使用したasとしての「と」は、存在の開けをめぐる鍵として、おそらく福田さんにとって重要な助詞になると思われます。

またもしも上に書いたことがわたしの思い過ごしで、「てざわりがあじさいをばらばらに知る」という句の意図が、ここに書かれた内容そのままであった場合は、

  てのひらが樹をバラバラにしてみせる  前田一石

と読み比べてみるのも面白いかもしれません。

「てのひら」はある人間と世界との接触面である。他人と握手するにせよ、モノを掴みとるにしろ、個人がもつ関係性の最前線となる。手相として人格や将来が現れると信じられたりするのも、内部と外部の交わりの複雑さを受け止めるこうした身体的位置から納得される。この一句では、その「てのひら」が「樹をバラバラに」してしまう。関係を築く始まりとなるべき部位が外部への暴力性を露わにする。「~みせる」という句末はこの「てのひら」が語り手とは別個の存在として意識されていることを表すのだろうか。個人の主体性という位置から制御不能な関係のあり方を描いている、と読んでおく。(湊圭史 川柳誌『バックストローク』50句選&鑑賞(1)

あらかじめ客体を知った上で、触手でもってそれを分析的に辿り直すこと、すなわち再-認識(世界を掴み直すこと)が目的である福田さんの句。それに対し、外界に触れるてのひら、すなわち世界への触手が、しばしば世界それ自体に模される樹を把持するどころかそれを崩壊させてしまうと告白する前田一石の句。

後者の句は〈存在の開けの頓挫〉〈主体と世界との間の制御不能性〉〈どうしても対象化できない世界〉を詠んでいますが、決してペシミズムに陥っているわけではありません。なぜなら世界と主体とはいつでも非対称的なものであるから。またさらに言えば、世界を悟るとは、そのつど主体の〈知〉が揺らいでしまう事件を意味するからです。


エクリチュールとは結局のところ、それなりの悟りなのである。悟り(「禅」におけるできごと)とは、多少なりとも強い地殻変動であり(厳粛なものではまったくない)、認識や主体を揺るがせるものである。つまり、悟りは言葉の空虚を生じさせてゆく。(ロラン・バルト『記号の国』)

2016-08-22

村の俳人



隣町へ行ったとき、ショーウインドウがいい感じの本屋の前を通りかかったので、暇つぶしに入ってみると、2冊の上品な句集があった。お店のご主人に値段を尋ねてみたところ、どちらも8ユーロですとの返答。うーん。ちょっと高い。わたしはありがとうございますと礼を言い、本を棚へ戻そうとした。するとご主人が「高い?」と単刀直入に訊いてきた。

こういう時、どうしますか? 率直に打ち明けるべきかどうか一瞬迷いますよね? でも横にいた夫に「はっきり答えなよ」と促されたので「はい。ちょっと私には…」と伝えると、お店のご主人は「じゃあ2冊で10ユーロでいいわ。実はその作者、去年亡くなったの。だから定価で売っても、もう儲け分を渡しに行けないのよね」と言った。

「ここ、出版社もやってるんですか?」
「そうよ。その俳人は隣村に住んでいて、去年83歳で亡くなったの」
「そうですか…」

こんな話を聞いてしまったらもう買わないわけにいかない。それで家に持ち帰ったのが写真の本。細長い紙は、ご主人が「これつくってみたの。素敵でしょ?」と、くれた栞である。



作者の名はピエール・コンスタンタン。「音楽」と書かれた方が『光の…調べにのって』、そして「俳句」と書かれた方が『語れよ、風よ…』というタイトル。作者の心の響きがそのままタイトルとなったようだ。開いてみると作者の描いたスケッチも載っていた。


こんな異国の森の中の村にひとりの俳人が住んでいた。またもし運命がそれを許したならば、語りかけることだってできた。そう考えるととても不思議な気持ち。死んでいたのに、なぜか出会った気持ち。遠い場所で。

わたしは歩く
ある夏の夕暮れを
消えのこる…暑さを

ピエール・コンスタンタン

2016-08-21

コルビュジェと土


映画『楢山節考』に「土から生えた映画」という有名な惹句がありますが、コルビュジェの住宅を見ていると「あれ? おまえ、もしかして土から生えたの?」と声をかけたくなりませんか? なんというか、にょきにょきっとした自生の雰囲気があって。 


上の写真はマルセイユにあるマンションの屋上、下の写真が脚の部分。住宅だから自分よりずっとずっと大きいのだけれど、壮大なところはぜんぜんなくて、小さいころから知っている木がいつのまにか育ちに育ったよ!といった印象。 

わたしが見学に行ったときは、共同玄関のホールでオーガニック関係のイヴェントをやっていて、床はいちめん土だらけ。「やっぱり土から生えたのね、この建物は…」と思いました。

2016-08-20

花のタイルと地中海



アパートの台所のタイルと目地がめっぽうボロい。しかもところどころ高度経済成長期のマホービンみたいな花柄ときている。若い頃の自分なら絶対に借りなかったたぐいの住まい。思えば年齢とともにずいぶん性格が大雑把になった。

大雑把になった背景には、地中海マジックも大きい。

ひとつ例をあげる。真夏の体育もジャージを着たまま行うような寒冷地で育った自分は、ふとももを出すのが死ぬほど恥ずかしく、この町に住むまでショートパンツを穿いたことがなかった。それがここへ越してきた翌日、何の抵抗もなくわたしはジョギング用の短パンを購入した。海が青いから、という屈託のない理由で。

環境は一瞬で人を変えてしまう。

♣️ 追記 象印花柄ポットの歴史についてはこちら。便箋は薄手の紙に印刷すると、ヴィンテージ・ショップの掘り出し物っぽい。不思議といいんですよ、これが。

2016-08-19

謎彦、あるいはハイパーテキストの銃撃戦



謎彦がブログ「ジャポン玉」をいっとき再開していた(そしてたちまち飽きた)ようだ。俳句、川柳、連句、短歌、漢詩、なんでもこなしてしまうほんとうに謎の人、謎彦。

謎彦といえば、何よりもまず歌葉新人賞の最終候補作となった「幻 ~Do Minamoto Yourself~」。これは911の暗雲に包まれるニューヨークに住む若き日本人学者が、自我を誇大妄想的に駆使することによって(この主人公、作中では帝の胤「源融」と自称する)、仕事や恋愛などみずからを取り巻く状況とアクロバティックに対峙するさまを描いた、ものすごい連作だった。

 聞こえるか、打ち鳴らされる進軍歌が——
空を飛ぶ まろが飛ぶ 雲をつきぬけ正一位
火を噴いて 闇を裂き スーパー貴族に成りあがる
O-TO-DO! OTODOがMIKADOを抱いたまま
O-TO-DO! OTENMONで待つ
 これは戰爭である。

牛は死にますか牛車は死にますかせめてあの大臣(おとど)はどうですか

ジュリー「TOKIO」ないしカブキロックス「OEDO」をベースとした詞書に、さだまさし「防人の歌」を本歌取りした一首を添えて。父である天皇を利用した主人公の暗躍ぶりが恐ろしい、たいへん政治色豊かなコクのある歌だ。

これは「みなもとの○○○とはしるあたり、ここNYより一寸楽しい」という歌。○○○の部分は、好きな語を入れてご鑑賞下さいということだろう。漢字の選択にはどういう意図があるのかしら。無知なのでわからない。わからないと言えば、次の作品も一人で読んでいたら恐らくわからないままだった。
 Hey, come on, come on....
わが父祖の徽章であつて、わいせつなものをいくつも描いたのではない!
この詞書、家紋(菊の紋章)と英語圏の女性の喘ぎ声との掛詞らしい。あはは。ネット時代って本当に便利ですね。

謎彦の素敵なところは全然ナイーヴじゃないところ。青臭い実験性は読んでいて非常につらいものだが、謎彦には若いころからそれがない。

それにしても歌葉新人賞というのは空前絶後のお祭りだったんだなあ、と今もってつくづく思う。なにしろ謎彦に限らず、さまざまな個性を纏ったハイパーテキスト性の強烈な作品が、まるで銃撃戦みたいにばんばん候補にあがっていたのだから。正直、この賞の光景に毒気を抜かれたせいで自分は短歌を書こうと思わなかったのだ。

そつとそつと舌とガーゼでほりおこすミナモトロプス・クモガクレンシス  謎彦

2016-08-18

フィギュア(形象)/フィギュラル(比喩的)




いったい音楽のなにが素敵かというとですね、これはもう時と場合によっていかようにでも表現できるわけですが、どうしてもひとつに絞れと言われたら、音楽には意味がないところ、と答えたい。

>意味がない、わからない、ということが音楽においては容易に至福となります。あっさりと、なんの差し障りもなく。

俳句を「読む」ときも、>作品という形象(フィギュア)の中にわざわざ比喩的(フィギュラル)な意味をさがすようなことはしたくない。そういうのは、大変ナンセンスな行為だと思うのです。むしろ自分は形象(フィギュア)をつくっている土地の地質や気象、あるいはその土地における作家の過ごし方といったことに興味があります

ひとことでいうと、その句がその句たりうる空気の元、ですね。さらにシンプルに言えば、すなわち音楽性でしょうか。

写真はマーチング・バンドの路上ライブ開始前の光景。シニア以上シルバー未満、といった感じのメンバーでした。週末になると、こういった人々がどこからか湧いてきます。

音楽がたんなる構造となるのは、その核心が空虚だからであり、それがあらゆる現前の否定を「意味する」からである。したがって、音楽の構造が従う原理は「充溢した」記号に基づく構造のそれとはまったく異なった原理なのであり、そこでは記号が感覚を指示しようと意識の状態を指示しようと変わりはない。音楽的記号はいかなる実質をも根拠としないため、けっして実在の保証を持ち得ない。(ポール・ド・マン『盲目と洞察』)

2016-08-17

抱き合う男とその発句


あらかた花が散ってしまい、これといって見るところのなくなった樹木がいっそう心に響くように、螢はお盆を過ぎた頃がむしろ好ましい。もう終わっちゃったのかな、とか、ほとんど光らないね、などと話しながら、閑散とした空間を人とほっつき歩くときに覚える、宙ぶらりんな状況のそこはかとない愉悦。

螢といえば芭蕉と蕪村をモチーフにした石井辰彦「We Two Boys Together Clinging」は自分にとって忘れられない作品のひとつだ。これは20首からなる短歌の最初の音を綴ってゆくと

艸の葉を落るより飛蛍哉  芭蕉

といった発句&作者名が現れ、また最後の音をうしろから綴ると 

狩衣の袖のうら這ふほたる哉  蕪村

といった発句&作者名が現れるよう構成された連作で、歌い出しはこんな風。

 暮れ泥む裏庭は荒れ----。               遊君が焼き棄つる(間夫からの)返信 


 刺し違へ・死にし二人の若武者の、恋     とは(若しや、江戸趣味の?)嘘 


 野に(燃ゆる)虫、海に(血の色の)蟹、と  変じて(今宵)死者たち荒ぶ


遊君は「たはれめ」とルビ。またこの作品には俳句や蛍といったモチーフもきっちり仕込まれており、

 翁びし友かも。----句会三昧で(此の中)暮らし、と      言ひ、脂下がる 


 懐かしむ前世          ふたりの若者の契。蛍は、つ、と、相寄りぬ


など、様式美もかくやといった歌がずらりと並んでいる。

石井には四句と結句の間に強いひねりのある句跨りを放り込むといった塚本邦雄系譜の決め技があり、読んでいると膝のこなれた演武を眺めているような印象を受けるのは「We Two Boys Together Clinging」も同じ。さらに内容は伏せるが、本作にはたいへん洒落たオチが用意されていて、鮮やかな掌編的情感もある。


わたしは石井の歌集を2冊しか持っていないが、今もって読み尽くした感がない。どんな風につくられているのだろう?と模型の細部にじっと目を凝らすようにしてする読書はとても愉しい。

上下逆さまにしがみつきあう二人の男とその発句。石井辰彦の詠む恋愛はすべて男同士のそれだが、BL流行りの昨今もうすこし騒がれてもいいのに、とたまに思う。おそらく内容に「実」がありすぎるために、そうはならないのだろう。 

びしよ濡れの心美童の髪を切る鋏渡りて我が夜の汽車  石井辰彦



2016-08-16

愛しい本の条件*03


愛しい本とは旅の回顧録。

クロード・レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』はタイトルが超ハードボイルドだし、表紙の少年の面構えがこんなだし、冒頭の一文が「私は旅と冒険家が嫌いだ」だし、そう書いておきながら実際は西洋文明に倦んだ主人公(レヴィ=ストロース自身のことね)がアマゾンに飛び立っちゃうストーリーだし、あげくのはてに最終章の主人公の台詞が「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」である。なんという非情。これで世界的ベストセラーにならなかったらそれこそどうかしている。

いきなり話は逸れるが、書物にとって署名は肝だ。もしも『血の収穫』がダシール・ハメットという異国情緒あふれる署名を持たなかったら、誰ひとりこの本の凄さに気づかなかったかもしれない、という意味で。それと同様に『悲しき熱帯』も、クロード・レヴィ=ストロースという明朗で開放的な響きの署名を持たなければ、ただの優れた研究書であるにすぎない。あまつさえこれがブルジョワっぽい甘い香りの署名(アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリとか、そういう感じ)だったとしたら、もう絶対に構造主義をブームにもできなければ、それを支え切ることもできなかっただろう。

そういえば、わたしは以前から『存在と時間』という本を読んでみたいと思っているのだけれど、ハイデッガーという署名がなんというか大仰すぎて、気恥ずかしくて、なかなか近づくことができない。哲学書と大仰さって相当いただけない取り合わせだと思う(あくまでもわたし目線。ハイデッガーに全く罪はない)。ちなみに『ターミネーター』とシュワルツェネッガーとの取り合わせは笑っちゃうほど好きである。
なんと気持ちのいい朝だろうああのるどしゅわるつねっがあ 大畑等

2016-08-15

YOUNG YAKUZA と熊谷正敏


少年マンガ『拳児』に出てくる武術家はすべて実在の人物だ。名前をもじってはいるものの多くの場合一字のみ。しかも姿形をデフォルメせずそのまま描いているので、季刊『武術』などを読んでいれば全員の正体をすんなり割り出せるようになっている。

もっとも主人公の少年を筆頭にストーリーの中心人物はフィクションである(でないと問題が生じる)。それでも主人公の少年に八極拳を教える祖父の顔が倉田保昭だったりと、なにかしらの遊びが仕込まれていた。

当時わたしが知りたかったのは「熊谷組」なるテキ屋を仕切る若頭のモデル。熊谷の名は珍しくない上、一字もじっている可能性もある。そのためずっと分からずじまいだったのが、とうとうある日、碑文谷一家熊谷組の熊谷正敏だと気がついた。

きっかけはジャン=ピエール・リモザン監督の『ヤング・ヤクザ』を観たこと(マンガでは本人からオーラを抜いて、その顔つきだけを借用したようだ)。一人の少年が熊谷組に入り、規律を守れず脱落してゆくまでを描いたこのドキュメンタリー映画で、熊谷正敏はリモザン監督と共にカンヌ映画祭のレッド・カーペットを歩いた。

本編中、熊谷その人以外で印象に残ったのは、ヤクザの少年たちが水浴びをするシーン。まだヤクザになりたての子は刺青も入れはじめたばかり、そのため文様があちこち中途半端で汚い。そのあまりにできそこないの刺青を背負った子供たちの姿が無性に切なく、それでいて無造作に浮き出たその絵柄が大人になりかけの鳥のようにもみえ、どことなく愛らしくもあったことを覚えている。



2016-08-14

輝く陽、風の気配





2016-08-13

これがSFの花道だ



昨日のブログの、あっと叫びだしたくなるような話のつづき。

川合大祐『スロー・リバー』が肌に合いすぎて困っている。この系統のものとしては関悦史の「小惑星ぶつからば地球花火かな」を読んで以来の衝撃だ。もっとも関悦史とちがって『スロー・リバー』は一冊まるまる頭がおかしい。しかもいわゆる出来の良い句が良いのは当然として、ひどい句がもうたまらなく良いのである。と、こう書くと『スロー・リバー』はわたしにとって傑作であるということになってしまうが、実際どうもそのようだ。あっ。なんということだろう。

その川合さんだが、当ブログ開設のとき「フラワーズ・カンフーというタイトルは、もしかしてチャイニーズ・カンフーが元ネタですか?」と訊いてきた。さすがは「川柳スープレックス」で飯島章友と共に格闘技枠を担当している(今わたしが勝手に決めた)だけのことはある。春に飯島さんにお会いしたときは、思わずその場に五体投地してこの人の弟子になろうかと思ったほど興味深い(が、当然ここには書けない)武術界の脇街道のお話を拝聴したが、川合さんもこの手の話が大好きなようす。しかしわたしはジャンボ鶴田にはさほど興味がない。ごめんね。

それにしても良いタイトルだなあ。ご本人にぴったり(会ったことないけど)。そして「チャイニーズ・カンフー」は『スロー・リバー』のBGMにぴったりだ。

休日の朝の、ささやかな幸福。

さらっと正気なことを書けば、川合大祐にとってのSFとは、他には何ももたず、ただ己の想像力だけを武器にして孤独を生き抜いた時代に固く握りしめていた、今も手に残る銃弾のようなものであるにちがいない、と思う。

そしてまた必然性のない尼だ   川合大祐


2016-08-12

海が愉しいのは



海が愉しいのは、空と海のすばらしいヴォリューム。砂と石の描くデザイン。あちこちに散らばる漂着物。もちろん鳥も、波の音も。眺めてもよくわからないもの、或いはいまだ出会ったことのないものについて思い描くとき、視界をさえぎるものが何もないせいで、果てしなく想像の羽がひろがってゆくこと。

今日は海辺でロジェ・カイヨワ『旅路の果てに』のことを思い描いた。「いったいあの本には何が書かれているのだろう? おそらく偶然、幸福、孤絶などにまつわる、途方もなくクールな知見にちがいないのだけれど——」と、自分の知るわずかばかりの引用を復唱しながらあれこれ空想してみたのである。生活にかまけていると、日本から本をとりよせるという単純なことが存外むずかしい。かといって原書を味わうには語学力が不足している。わたしはこの国に住んでもうすぐ18年になるが、端から端まで読み切ったフランス語の本はたったの1冊しかないのだ。

私は石が、その冷やかな、永遠の塊りの中に、物質に可能な変容の総体を、何ものも、感受性、知性、想像力さえも排除することなく含みもっていることに気づきつつあった。と同時に、絶対的な唖者である石は私には、書物を蔑視し、時間を超えるひとつの伝言を差し出しているように思われるのだった。

いかなるテキストももたず、何ひとつ読むべきものも与えてくれぬ、至高の古文書、石よ……

カイヨワは、あっと叫び出したくなるようなことを書く。石の中に形成されるのは時間の記憶だ。時間の記憶が、いかなるテキストももたず、何ひとつ読むべきものも与えてくれぬゆるぎない塊となって世界に転がっている。なんということだろう。人にとって、これほどの幸福が他にあるだろうか。

2016-08-11

愛しい本の条件*02



DOVERの科学書には表紙全体が手描きのものがいっぱいある。

なにやら深い意味がありそうな(だがその意味が皆目わからない)手描きの線の味わいというのは、自分にとって嬉しきものの範疇。

上は一人のデザイナーが長年担当してきたシリーズ。図がコンピューターのそれとは違って妙になごむ。色の乗りもどことなく柔らかい。とても素敵な(と私の頭の中では定まっている)老人が、自分のアトリエで効率よく作業している光景を想像すると、ふわふわと夢のような気分になる。

ネットで検索してみると、昔のヴァージョンは今より色彩がクール。



自宅にあるエンリコ・フェルミ『熱力学』は下の色に変わっている。ここまでくるとかわいすぎて何の本かわからないよ、と手に取るたびに思う。

2016-08-10

愛しい本の条件*01



愛しい本とは、見た目のたまらない本。

写真の『現代フランス戯曲選集』は10年くらい前、パリの古本屋街で投げ売り同然だったのを、この本の辿った道が偲ばれるような鈍い光沢にぐっときてアパートに連れ帰った。ダーラヘストが映り込んでいるあたり、落としきれていない黒の靴墨がよれて固まった感じのボロさである。ちなみに中は一行も読んでいない。風通しのよい場所で、のんびり余生を送ってほしい。



背表紙はかなり色褪せている。その隣の本は黄色い布の質感に惹かれた『ゲーテ全集』。ケルンの本屋でみつけた。こちらも一行も読んでいない。ドイツ語だから。

2016-08-09

鳥のある窓


わたしは鳥が好きで、日々つくづくと眺めて暮らしている。あの、四足獣ではありえない、ぱりっとした尻尾の感じ。羽の先でちょっと隠しているようでいて、実は見せている感じ。ぴろーんと。そして飛んでいるときの、ひきしまったりりしさ。自分にもあの感じが出せたなら、と思う。あのぴろーん、からの、きゅっとしたりりしさ。そのあと、また降り立って、ささっと羽をたたむ。ちょっと首をかしげて。まるで空など絶対に飛んでいなかったかのように。

さっきまで、鳥の影が、この床にうごいていた。が、考えごとをしているうちにいなくなってしまった。

鳥がきて大きな涙木につるす  阿部完市

2016-08-08

ダブルイメージについて



よく参考にしている湊圭史の文章を読んでいて、こんな句解にぶつかった。


ほどかれてゆく山コーヒーをもう一杯  筒井祥文
「重層的な世界観」と初めに書いたが、この句はまさにそれに当てはまると思う。一読、「山」には現実の山のイメージが浮かぶが、読み直してみると、喫茶店か自宅か、テーブルの上に書類を山積みにしてこなしてゆく、という日常的な光景が描かれている。このダブルイメージの効果を生んでいるのは、川柳独特の省略(仕事、書類、という現実の文脈を示唆する言葉を隠している)が、ひと目では気づかれないかたちで仕組まれているからである。(湊圭史 川柳誌『バックストローク』50句選&鑑賞(3)

上の文章で気になったのが「ダブルイメージの効果を生んでいるのは、川柳独特の省略(仕事、書類、という現実の文脈を示唆する言葉を隠している)が、ひと目では気づかれないかたちで仕組まれている」という箇所。

はたしてこのような省略は川柳独特のものなのか? 俳句も短歌もイメージの重層的手法とは宿命的関係を持っており、むしろ川柳より強固のような気が、わたしには、する。もっともその宿命的関係について、今ここで詳しく語るつもりはない。この手の話は単純かつ局所的に例を引かないと、たちまち訳が分からなくなるから。


隆起してやがて崩るる思ひ出や 山の名前の珈琲二杯   小池純代

小池純代には仕事の一景を詠んだ作品が数多くあるが、掲歌の「山」はこみあげる記憶(単独的光景)、うずたかき雑務(一般的光景)、それらに埋もれながら一息つく私の手にあるブルーマウンテン、といったトリプルイメージを形成している。

また両作品はコーヒーをおかわりする点も同じだが、小池の方には寄せ返す記憶の運動と反復するコーヒーとのあいだにイメージの形態の重なりがある。

さらに言うと、小池の方には短歌の構造のちょうど真ん中に切れ字、すなわち情感の「山」が存在し、なおかつこの切れ字のうしろに空白の一音を挟むことでしっかりとその高さが強調されている。そしてその状態から「やがて崩るる」を実践するかのごとく、おもむろに「やまのなまえの」といった〈音韻の地すべり〉が起こってゆく。上の句の最後と下の句の最初の音が同じ「や」であるのも芸が細かい。

おそらくこの〈音韻の地すべり〉は掲歌の情趣の要でもあるだろう。この柔らかくほどけてゆくような音の感覚こそ、〈なだらかな日常〉という時間のリアリティを読者に伝えると同時に〈こみあげる記憶の標高〉を切なく振り仰ぎ見させる秘術なのだ。


思ひ出のやうにこみあげふたたびをしづかなりけり夜の噴水 小池純代

2016-08-07

スーパーの景品


少し前、夫と一緒に郊外にある大型食料品店に行って生活用品をあれこれカゴに放り込み、レジでお金を払った。するとカウンターにいた男性がこんな青い箱をくれた。


わたしは景品というものがどうしてか苦手で、あげると言われたらできる限り丁寧に辞退するようにしているのだが、この時ははっと気がついた時にはすでに手渡されてしまっていたので仕方なく家に持ちかえった。そして蓋をあけてみると、こんなものが入っていた。


右上から時計回りにホイッスル、ゴム製のブレスレット、身体をなぞるとフランス国旗の柄が描けるクレヨン、空気製バット2本、フランス国旗、そしてサングラス。サングラスは遠くに焦点をあわせるのに便利なピンホール式のもの。


広げるとこんな感じ。いわゆるサッカー応援グッズである。配っていた時期から推測して「みんなでユーロ2016を盛り上げましょう!」というメッセージなのだろう。こんな便利なセットを無料で配っちゃうんだ! ってスーパーの広告入りだし当然か。にしても、ちょっといいね、これ。と、大企業の搾取構造や利益還元の仕組みについて約10秒ほど思いを巡らせたのち、わたしはごくシンプルに感動した。

2016-08-06

永遠よりも



何ももたずに生きているので、思いついたときにどこへでもゆける。

ゆくのはいつも小さな旅だ。

車窓の景色はバスの方がきれいなことが多いけれど、車内の雰囲気は列車の方がすてきだ。いざ乗り込んで車内をみまわしたときにあっと気づく、時空をワープする箱に相乗りしてしまったような感覚。列車がうごきだす瞬間、胸にこみあげる、時空ごと運ばれてゆくことのさみしさ。

永遠よりも少しみじかい旅だから猫よりも少しおもいかばんを  荻原裕幸

2016-08-05

記憶のしくみ



毎日、外に出るたび、空と海のとても青いことに驚いてしまう。

で、驚きつつ「そういえば、わたしは青い空と海が大好きだったんだ。きのう思い出したばかりだったのに、どうしてまた忘れていたんだろう? そうだ、今度誰かに『お好きなものは何ですか?』と訊かれたら『青い空と海です』と答えよう。よし。これ、すごく大事なことだから、ぜったい忘れないようにしなきゃ…」と毎日心に誓う(そして毎日忘れる)。

毎日、同じ輝きでもってわたしを出迎え、そのすばらしさを思い出させてくれる景色が、扉の外に広がっている。

それと出会い、それを思い出し、そして忘れ、またそれに出会う日まで、ずっと忘れている。

もうそれを思い出すことなどないかもしれないと思いながら、ずっとそれを忘れたままでいる。

それが何であるかを少しも知らないまま。