2016-12-31

薔薇色の金玉



山本勝之のあの凄いの、あれ、なんて言ったかな…と思いながら

「薔薇色 金玉」

で検索してみたら、すぐ見つかった。


街角に薔薇色の狼の金玉揺れる  山本勝之

素寒貧な男の色気と、狂気と、年の暮れ感。

2016-12-30

そしてさよならした「べし」


≫ べしシリーズ (1) (2) (3)

先日のブログの堀田季何さんは『フラワーズ・カンフー』の選句に影響を与えた数少ない一人です。どういうことかというと、この本のあとがきには「第2回攝津賞から現在までの2年半分の作品をまとめた」と書いてあるのですが、実は一句だけ例外があって、それが週刊俳句の「10句競作」に出した

発語して光をにごす須臾となる  小津夜景

というもの。これ、俗にいうわたしの処女作なんですけれど、当時この句を堀田さんが褒めてくださったんですね。軽く。で、わたしはそのことをずっと覚えていて、この方が良しというのなら心配ないだろうと、句集を編むとき記念にこっそり入れたというわけ。さらに書くと、堀田さんが褒めてくださった別の句には

ヴァカンスやすべからく季節崩(く)ゆるべし  小津夜景

というのもあった。はい。べし、でございます。この句は「10句競作」の選者でさいきん『虎の夜食』を上梓した中村安伸さんにも採られたので、ふーん、こうゆうノリってありなんだね、と2度確認できた。ところが『フラワーズ・カンフー』の編集をはじめてみたらきのうの「べしをどうしても入集させる必要があることが判明してしまい、あっさり選外に。

ええと、とかくこの世はままならない、というおはなしでした。

2016-12-29

べしの調理


いままで「べし」の話を数回書いた()。この語は音にキレがあって好きなんだけど、使い方をまちがうと最悪の意味でアホっぽくなっちゃうので気をつけなきゃいけない。以前このブログに載せたサ行折り句の

さるびあに痺れる指(および)すべからく世界は意味にそびえたつべし  小津夜景

はまさにそう。いささか女っぽい、自己肯定的な陶酔がある。これ、どうかんがえても「指」がダメなんだよね。やらしくて、人妻っぽい。たぶんこの一語から解体にとりかかれば、この歌は生まれ変わるだろう。こんな簡単なこと書いた瞬間に気づくべきなのに、自分って脇が甘いなあとがっかりする。

さて、気を取り直して、もしも今ここで、あらためて「べし」を調理するとしたらどうするか? 

えっとですね、まず「べし」で軽い2句切れをつくりたい。で、そのうしろは「べし」の熱を冷ますために一字空ける。そして後半は長めの名詞をつかって、結句を句跨がりにする。というのも「べし」を入れると2句目には意味的な圧力がかかるので、3句目以降はその反動というか均衡をはかるために、ゆったりした尺で空気を動かしたいんである。たとえばこんな感じで。

惑星に齢あるべし 余白なきスタニスワフ・レムの日記よ 

言葉と意味はテキトー。とりあえず各分節の頭韻脚韻および強拍弱拍のバランスを見ながら、音の動きだけざっと割り付けてみた(4句目のスタニスワフが6音なのはご愛嬌で)。

どうでしょう? 最初の歌の「べし」と比較して、より節度が増したような気がするのだけれど。

なんにせよ、こうした音の配置を考えるときって、絵を描いたり、献立を考えたり、盛りつけをしたりするのとまったく同じ愉快を、わたしは感じているのですよ。今日言いたいのは、そのこと。

そびゆべし囀はわが死後の木に  小津夜景

2016-12-28

カモメと天才



このあいだ福島泰樹の「あおぞらにトレンチコート羽撃けよ寺山修司さびしきかもめ」を引用したのは、実はカモメの話をしたかったのではなく堀田季何の

underdog(まけいぬ)になるためだけに登場し姫川亞弓まさしく天才  堀⽥季何 (*姫は正字)

って膝をばんばん打ちたくなる歌だよね、と言うつもりだった。

ちなみにこれらの歌の共通点は、下の句の7・7が《人名+その人の性》になっていること。それだけ。

堀⽥の歌、姫川亞弓の身を切るような真剣勝負の人生とその孤独とを、かくも簡潔に言い当てたところが凄い。まさしく天才、というど直球の決めゼリフもいい。芸術至上主義者であることを許された、神に選ばれし賤民亞弓。泣ける。

性が天才であることだなんて、またそれゆえにunderdog(まけいぬ)だなんて、こんな大胆なマニフェストを結句体現止めでキメちゃうんだから、ほんと読むたびに「うふ♡」って感じ。

2016-12-27

反スイート論、そして絶唱。


むかし『塵風』5号で佐山哲郎の
  アンリ・カルティエ=ブレッソン
決定的瞬間といふ宣託を遺して朝の螺旋階段  佐山哲郎
という歌と出会ったとき、即座に
野枝さんよ虐殺エロス脚細く光りて冬の螺旋階段  福島泰樹
を思い出した。どちらも素敵な作品である。

福島と比べてみると、佐山の歌は音の動きが伸びやかで、描かれている光景もキラキラしてこの上なくロマンティックなのに、少しも甘くなく、キレがある。それは言葉のスピードが速いからだ。しかも最後の最後まで速度が落ちない。結句で飛躍しようとせず、あくまで直球を投げ込まれた感じ。痺れる。

ちなみに、さいきん多いタイプの歌はシンパシー系もワンダー系もスイートな点では同じだが、そうなってしまうのは言葉の速度が遅いことに起因しているのだろう、とおもう(例外については、近日中に書く)。

それはそうと今日ツイッターを見ていたら、のなあかりという人に

「男は尻を出してサンバを踊ることはできない。だから、褌を履いて冬の真水に入るんだ。」

という名言があることを知った。この名言をつきつめてゆけば、すなわち次の絶唱へとコンヴァージョンされるにちがいない。
なにも莫いなにも無ければ秋を売る男と成りて我は候  福島泰樹

2016-12-26

皿の上の生命体



ケーキで大切なのはちゃんと甘いこと。
そして見た目はユルい方が、絶対に可愛いらしい。
へなちょこで、だらしないのが。
地球外生命体っぽい空気を放っていたら、さらに言うことなしである。

つまり【スイート&ルーズ&エイリアン】が素敵なケーキの鉄則だ(おそらく女性という生命体も)。

2016-12-25

聖夜にまつわる真理



近年知った真理のひとつに、
年をとると、クリスマスも平日も、胃袋の大きさは同じ。
というのがある。

つまりクリスマスだからと鶏をまるごと購入してオーブンで焼いた場合、その後3食は鶏がつづくはめになるわけだ。

鶏一羽はオーガニックのスーパーで1400円程度。一食あたりで計算して350円。それにつけあわせを足すと、おおよそ夫婦で800円くらいの晩ごはんになる。クリスマスをしないというなら理解できるが、とりあえずなにかしらやってこれしか食べられないのだから、この真理のあまりの堅牢さに戦慄をおぼえないではいられない。

2016-12-24

朝の白熊、ユーモアの外で(5)



朝8時。停留所の背後にひろがる巨大なショー・ウィンドーの中で、白熊たちが、ひどくゆっくりと動いていた。度を超してゆっくりなため、角度が悪いと小さな熊たちが軒並み瀕死状態にみえる。さらに大きな熊の放心した目。怖い。

話は変わって、きのうの「言語の学習」にひとつ付記。この連作はタイトルから想像されるとおり、ことばあそびという細部が主調に据えられている。

つまり浮き立つナンセンスの底にリアルが沈み広がっている、という構成だ。

この構成を見たときわたしは、芥川也寸志が「ショパンの音楽は装飾音こそ命であり、細部が主調たる力なのだ」と書いていたのを、ぼんやり思い出した。

さらに余談。ショパンはサンソン・フランソワが安心する。理由は幼少の頃、この人のレコードで育ったから。業界が彼をどのように評しているのかは知らないけれど、わたしにとって彼の演奏は家庭の匂いそのものである。

2016-12-23

ユーモアの外で(4)


四ッ谷龍『夢想の大地におがたまの花が降る』の「言語の学習」は東北地震の被災地を訪れた連作である。

この連作の特徴は「震災」というリアルな文脈の中にナンセンスな句がたっぷりと挿入されていること。深く傷を負った風景が安易な癒しへと流れてゆかないのは、この構成に負うところが大きい。

〈重苦しく沈む主題〉と〈軽やかに浮く細部〉とを織り合わせるというのは映画では珍しくない手法だ。この〈細部〉があってこそ、目の前にひろがる現実の非現実感がきわだちもする。この連作においても、いきおい視覚重視になりがちな震災地への思い入れが、聴覚重視のことばあそびの魔法によって、そのつどリセットされるような感じがある。

なななんとなんばんぎせるなんせんす   四ッ谷龍
仮の家また仮の家また躑躅 

「なななんと」といったことばあそびが「仮の家」のような現実的光景に対し徹底的に無関心を装うさまはわたしをとても安堵させる。なぜならナンセンスの精神とは、現実を物語化することへの最大級の抵抗だから。福島は物語にされてはならない。言うまでもなく「フクシマ忌」なる季語として「浄化」されることも。

2016-12-22

ベン・ヴォーチェの書



さっき近所を歩いていたら、前方に二人組のおじいさんが、いた。片方の背中にはベン・ヴォーチェの書で、親分(the boss)、と書かれている。

体つきから想像して、ベン本人のような気が、しないでもない。

こういうのは真実を知ってしまうと写真をアップできなくなるので、わたしは彼らを追い越さぬよう気をつけながら、この次の道を左折したのだった。

ベン・ヴォーチェの説明はこちら。本人のサイトはクリックするところが無数にあって超ラヴリー。

2016-12-21

恐竜みたいで、かわいい。




カモメ。大好きな鳥だ。それでも食事のときのあの本性を見てしまうと、あまりにロマンティックに捉えられがちだとは、思う。とてもじゃないが、

かもめ来よ天金の書をひらくたび  三橋敏雄
とか、
あおぞらにトレンチコート羽撃けよ寺山修司さびしきかもめ  福島泰樹

てな感じでは、ない。これを読んで、なんのことかわからない人。そういう人は「カモメ 丸呑み」で検索すればカモメの食事風景が見られる。もっとも閲覧注意画像すぎてまったくおすすめできない。むしろ、絶対に検索しないことを、おすすめする。

写真の鳥はカモメじゃなく、公園の、飼いならされた鳥。小さな恐竜みたい。


2016-12-20

ケーキといふもの


ケーキといふもの。外では食べるし、家でもつくる。しかしわざわざ外へ買いに出かけ、あれこれ悩んで選び、家へ戻ってさあ食べよう、というステップをふむのは年にいちどあるかないか。いや2年にいちどくらいか。いやそれも嘘だ。よく考えてみるとフランスに来て最初の10年はいちどもなかった。そんなだから、家の中に、めったにない、小さなきらきらしたもの(註・ケーキのこと)がやってきた日には大変なさわぎになる。お茶は何にするか、とか、音楽はどうしよう、とか。とうぜん写真の記録も残しておく。家であることがすぐわかるよう、左利きのしつらえで。

2016-12-19

ユーモアの外で(3) 一本の川と墓石


四ッ谷龍『夢想の大地におがたまの花が降る』における2番目の連作「大地の全表面」は、作者が散歩中にとりとめもなく考えた空想まじりの光景を描いている。

散歩者は繭になったり時計になったり  四ッ谷龍

その考えは春の地震にはじまり、グラジオラスのこと、一本の川のこと、枯野人や縄文人のことといった具合にこれといった脈絡なくつづく。なかでも一本の川をめぐる随想は伸びやかで自由闊達なロマン主義的情感をいっぱいに満たしていて心地よい。

君は一本の川だ春の音(おと)秋の音つらね  四ッ谷龍
君は一本の川だもう一つの川がある
君は一本の川だとても新しい流れ
君は一本の川だ崖ふかくしみとおる
君は一本の川だ子供時代を流れ
君は一本の川だ君自身を呑む流れ
君は一本の川だ亡き人もその一部

生命の讃歌。屈託のない筆遣い。と思いきや、読者は最後から2番目の連作「青山の墓」まで読み進んだとき、これらが決して単純な人間的精神の解放ではなかった事実を知ることになる。

君は墓石小田急線に乗り西へ   四ッ谷龍
君は墓石アイスマンゴージュース吸う
君は墓石殖えて殖えて町中が墓
君は墓石愛を知らない夏の石
君は墓石夜はゴトゴト笑う石
君は墓石元はさまよう星のかけら

連作「青山の墓」は配置的にも内容的にも「大地の全表面」と対をなしている(もしかすると「君は一本の川だ〈もう一つの川〉がある」という表現なども、この句集の対位法的性格を示唆しているのかもしれない)。この「君は一本の川」にあふれるロマン主義的情感が「君は墓石」と2声のフーガを形づくることで理知的な抑制を受けているといった特徴は、『夢想の大地におがたまの花が降る』が読者に与える〈ひっそりと閉じた感覚〉のひみつを解く鍵のひとつとなるだろう。

髯侯爵鍋をパンツとして穿きぬ  四ッ谷龍

2016-12-18

ユーモアの外で(2)「参加」


四ッ谷龍『夢想の大地におがたまの花が降る』におけることばあそびがいわゆる〈ユーモア〉や〈ヒューマニズム〉から遠いものである理由は、それが人間の尺度ではないものへの供物だからである。

そのたわむれはときに天使的(形而上学的)にも感じられるが、これについては四ッ谷が近年とりくんでいる数学やフーガの研究が関係していそうに思う。

しかし今日書くのはそれではない。本書の詩序にあたる連作「参加」のことだ。

うすごろもはらりといらんいらんの木  四ッ谷龍
亡き人の呼吸(いき)も聞こゆる森林浴
大空を鳩にあずけて薔薇づくり
露の世にきりりと弾けりヴァイオリン
ティボー弾く古き音色へ参加しぬ  

ここに描かれた情景は、ことあるごとにふりかえり、ていねいに耕された記憶のような〈濃い日陰特有の親しみ〉を読者に感じさせる。うすごろもの軽やかなうごきを介して香りくる、憂いをそっと癒す植物いらんいらん。大空を鳩にあずけ(すなわち空に想いを馳せることなく)土をいじり額に汗する作者。露の世に聴くティボーはカザルスやコルトーとあわせたベートーヴェンの「大公」だととても嬉しい。これらの句が人と生活をわかちあう歓びを感じさせるがゆえに、ティボーの演奏もごく少人数の、気の知れた仲間とのそれであってほしいのだ。(だが彼らはいまどこにいるのだろう?)

子供等の脱いだ靴へと参加しぬ  四ッ谷龍
ゆうぐれのゆううつの眼へ参加しぬ
ガラス器の花の模様に参加しぬ
白鳩の冷やかな瞳に参加しぬ

これらのことばには、世界の深い影がものうげに揺れかかっている。作者はじぶんを取り囲む存在にあいさつし、みずからを投げかけつづける。おそらく、ここに存在しないものが、ここに存在するものを介して、彼に語りかけやまないために。

そして、やがて、私たちがこの世を去っていったら、
残った者たちが、畠のはずれの、あの青い境界石に座るであろう。
また、彼らが仕事から戻って、テーブルに着くとき----
どのテーブルも、水差しの陶器も、語りかけるであろう、
小屋の壁の一つ一つの校木(あぜき)が、語りかけるであろう。
(ジョナス・メカス「古きものは、雨の音」)

2016-12-17

〈ユーモア〉の外で



四ッ谷龍『夢想の大地におがたまの花が降る』はことば遊びにあふれている。

そして、そこには〈ユーモア〉がない。

この句集に見られることばのたわむれは、おきざりにされた子どものはてしない一人遊びのようにさみしい。つんでは崩れ、つんでは崩れすることばを、いつまでも無言でつみ直しているようにさみしい。

花々や昆虫、化石、そして数学などさまざまな美しい光景を映しだすとき、それらの句は少しうれしそうにみえる。もっとも句がうれしそうなのと作者がうれしいのとは全く別の話で、作者はこの世の愉快をみずから味わうのではなく、向こう側の世界へ供物として捧げてしまうのだ  対象に没頭しているようで、その実なにも見ていない雰囲気を漂わせながら。

目に見える場所に、彼の見たいものが、きっとないのだろう。

この句集は〈にんげんのたましい〉には届かない世界を記録しようとしたという意味で、正しく〈ユーモア〉や〈ユマニスム〉の外にある。


おがたまの枝手放せば花は宙(そら)  四ッ谷龍

2016-12-16

ゆくヒトデ。



子供のころ住んでいた町の近くには北大水産学部がナワバリとしていた研究所があって、そこにおまけみたいな水族館がついていた。水族館とは名ばかりの、辺鄙な魚市場みたいな空間である。入場料は百円。お金をわたすとおにいさんが、はい、とジュースを一本くれる。つまりここを訪れると数十円国家から恵んでもらえるというわけだ。しかしこのシステムを活用する者はほとんど存在しないらしく、この水族館でわたしたち家族は他人を見かけたことがなかった(きっとホンモノの水族館に行ってしまうのだろう)。

この場所で、わたしはヒトデのかわいらしさを知った。とくにウラ側の、キモイ、といわれる部分に底知れない魅力がある。彼らはウラ側のどまんなかに口を有しているのだが、その水族館では人も敵もいないせいでリラックスしているのか、よくこの口になにかしら咥え込んでいた。こんぶ、とか。

くちびるをきゅっとむすび、その端からこんぶをぺろーんと垂らしたまま遊んでいると、たまにこんぶがじぶんに巻きついてしまう。そんなときはくねくねと五肢をくねらせてこんぶをほどく。その緊縛をほどくさまには知恵の輪をゆっくり解くような哲人風情があって、なんだかとても、果てしなく遠いいきもののように思える。

ゆきなさい海星に生まれたのだから  小津夜景

2016-12-15

生活と労働



3年くらい前まで、生活している、という実感をもったことがなかった。さいきんは少しわかってきたけれど、以前は人生に《ルーティン》を感じたことがなかったのである。

面白いのが、同居人も同じらしいこと。結婚してから、ずっと旅をしている感じ。結婚して、新婚旅行に出て、そのまま家に帰れなくなった心持ちというのがぴったりだ。

同居人は生活だけでなく労働の実感も湧いたことがないらしい。そうとう紆余曲折の多い人で、世間で言うところの社会経験も豊富なのだけれど。それなのに、わたしが「お仕事ごくろうさま」とねぎらうと「そういうのやめて。僕、いままでいちども自分が『働いてる』って思ったことないから」と言う。かならず。

無政府の夢から覚めてばななの木  長谷川裕

2016-12-14

すべての見えない光




渚なるものが世界にあるらしい  川合大祐

そのむかし、人と海であそんでいて渚のはなしになった。

その人の言うには、渚とは「波の先っぽと空気とのふれあうあわい」のことらしい。

だから、人は渚に立つことはできないのだ、ともその人は言った。

その《立つことのできない場所》が、みんな大好き。その、たぶん此処、としてしか捉えることのできない場所が。

(目を)(ひらけ)(世界は)たぶん(うつくしい)  川合大祐 

2016-12-13

『スロー・リバー』と『ピンヒール・カンフー』


【おしらせ】この月曜から一週間、川柳スープレックスで川合大祐『スロー・リバー』を読むことになりました。深夜番組ゆえ毎回つぶやき程度のことしか言いませんが、よろしければ遊びにいらしてください。

● ● ● ● ● ● ● ● ● 

きのうのつづき。客観不在のモンタージュは嫌い、色気のない教本的格闘もつまらない、やはり映画なのだし多少はトリック込みの演劇的な掛け合いがないとね、ということでアクションの動作設計は武術と舞踊両方の造詣がある人だと嬉しい。各シークエンスを音楽のメロディーラインと捉え、その上で見せ場をデザインしてくれるとなお言うことなしである。

あとは身体という素材を活かしたリズム感と華。それには呼吸が重要だ。

呼吸といえば、ジャンルは異なるけれど、ヤニス・マーシャルの振付の呼吸は悪くないと思う。音楽だけでなく韻律にもキメの型をひょいひょい《乗せて》くる感じで、しかもそれがいちいちヴォーグ的。カンフーの振付もセンスの良い人がやると、必ずこんな風に技を《乗せて》くる。というか、よく考えてみるとこの人だって、あれだけ頻繁に凶器として使用されるピンヒール使いの達人なのだから紛うことなき立派なクンファーなのだ。



スパイス・ガールズの曲に振付をつけて踊ったヴィデオはパリジャンっぽくみえるが、実際はコート・ダジュールの田舎出身。センスとパワーに溢れているし、これが香港だったら『ピンヒール・カンフー』なる映画がすぐさま製作・公開されることだろう。

2016-12-12

パルクールについて(2)


きのうのつづき。先日『チョコレート・ファイター』の話が出たとき、その人が一緒に挙げていたのがトニー・ジャーの『マッハ!!!』。


武術ができるという点で『チョコレート・ファイター』より好み。あとパルクールの上に香港系カンフー映画(京劇)の動作設計を100%かぶせた演出も、春秋戯劇学校出身者のコレオグラフィーを見て育った世代としては嬉しい。動き全体を映すことを前提とした上で見所を練った絵コンテと、シークエンスごとの充分な長回し。こういうの大好き。

それにしてもトニー・ジャーは監督に恵まれている。総じてアクション・シーンというのはテンポと雰囲気をつくるために無惨に切り刻まれるのが常だ。欧米のアクション・シーンは殊に断片集積的で、技のアップと役者のアッブを交互につないだ客観不在のモンタージュばかり。『フルスロットル』にしたって、あろうことかパルクールをぶったぎっちゃうんである。対象の真の動きを観客に理解させないために(としか思えない)。そういうのは全くノレない。

トニー・ジャーの話に戻って『トム・ヤム・クン!』になると格闘メソッドの教本ヴィデオか!?と思うくらいカメラをしっかり引いて基本の技をいくつも連続で見せていて、もはや動作設計の概念が違う方向へ行ってしまっている。いや、延々と見せている技が軍隊の近接格闘術だったりするから、本気で教本用の演武なのかもしれない。しかしなんにせよこれが動作設計界の新機軸であることは明白。色気のないものに欲情するタイプの人にはたまらないのだろうな、と思う。

2016-12-11

パルクールについて(1)


フランスのパルクールの歴史は古いが、あれだけ芸術的なのにもかかわらず人に知られない時間が長かったのはどうしてかを考えてみると、やはり攻撃体系を持たないことが最大のネックだったのだろう。その点、マドンナのHungUpやJumpといったプロモーション・ヴィデオは一般の認知度に大きく貢献して本当にエラい。

先日ある人と話していて、そのパルクールの話がちらっと話題にのぼった。もっともタイ映画の『チョコレートファイター』が好き♡とかその程度の内容なのだが、その時にジェローム・シンプソンのパルクールを使ったタッチダウンに触れなかったのはわれながら手抜かりだったと思う。

この手のスポーツにパルクールが導入されたら、ディフェンスの基本体系がコペルニクス的に変化することだろう。速攻でその日がやってきて欲しい。

2016-12-10

《まどろみ》と《めざめ》とのあいだに


先日「べけれ」の話を書く際、なにか適当な例歌があるかもと思い森岡貞香に当たってみた。あの紆曲に身をくねらせるような文体ならば、のどごしの悪そうな「べけれ」もぐいぐい呑み込んじゃうんでは?と期待したのだ。

で、結局ちょうどよい歌はなかったのだが、その代わりこんな歌に行き当たった。


椅子に居てまどろめるまを何も見ず覺めてののちに厨に出でぬ  森岡貞香

まどろみの間は何も見なかった、という表現が妙にシュール。さらに《醒めて後、出でぬる廚》が、本人の覚えていない夢の残存をいまだ引きずっている風で不気味。森岡は文体だけでなく時空の構成法も眩惑的だなあと感心する。一方これとよく似た歌に

椅子にゐてまどろみし後水差しに水あるごときよろこびに逢ふ  玉城徹

というのがある。《いまここ》に対面する人間は線条的時間を解さないから、《まどろみの世界》と《めざめの世界》にさしたる違いはない。ただ人間は《ループする現在》の眩しさに目をしばたいているに過ぎないのだ。

2016-12-09

浮遊感覚


カマルグ地方のつづき。

空ばかり撮る映画監督といえばアルベール・ラモリス。彼はヘリコプターからの転落でその48年の生涯を終えたほどの空好き。

『赤い風船』『素晴らしい風船旅行』『フィフィ大空をゆく』など、それぞれに異なる浮遊感覚を巧みに表現したラモリスですが、そんな彼に『白い馬』という作品があります。主人公は《白いたてがみ》と呼ばれる野生の白馬。ストーリーは「誰にも所有されない気高い《白いたてがみ》は、仲間の馬たちを率いて、自分達を乱獲しようとする人間に抵抗する生活を送っていました。そんなある日一人の少年と出会い、いつのまにか心通わせてゆくようになります。ところが…」うんぬん。で、この舞台となるのが南仏カマルグの湿地帯なんです。

カマルグはその特殊な動物相・植物相を保護するため、1927年に13,117ヘクタール分が国立自然保護地域に指定されているそう(wiki情報)。

雄大なスケールの湿地帯を白馬が駆けぬけるさまはとても印象的。そして、あ、やっぱり浮遊感覚の人、と思います。

2016-12-08

スーパーのお米



イタリア人やスペイン人がお米を食べるのは有名ですが、フランスにも地中海に面したところにカマルグという地名の一大稲作地帯があります。

わたしがふだん通っている食料品店では常時20〜30種類のお米が売られており、なかでも気に入っているのがフランス原産の黒米。手に取って眺めると、これでもかと品種改良されたあじけない米とは違い、色や形にいまだ素朴な風雅が残っていて、古代米ってこんなだったのかな、なんて空想したりも。

上の写真は近所の食料品店。下はカマルグでとれたお米。

2016-12-07

「べし」の技法(2)


きのうのつづき。元来「べし」の音には愛嬌があるが、これが「べけれ」になるといきなり手強くなる。とりあえず短歌では

雨はあめさめだれぐれと読むべけれ木綿の袖を濡れとほるまで   小池純代
べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊   永井陽子

といったアイデア勝負の「べけれ」が思い浮かぶが、これ、音感が良くないと大失敗しそうだ。いっぽう俳句はというと、

牧神の頭突きを春といふべけれ   磯貝碧蹄館

あは。なんて素敵な句。ことに「頭突き」から「春」を引き出す大胆な構成が、新風のようにすがすがしい。

掲句の魅力は、まるで天然を思わせるこの寓意の書きぶりが、実は俗っぽい遊び心を種としていること。「牧神」と「春」の配合から想像するに、作者はディアギレフとニジンスキーのバレエ作品、すなわち「牧神の午後」と「春の祭典」が頭にあったのだと思う。ならば「頭突き」はどこから?というと、たぶん、いや絶対に「春の祭典」初演の際に観客席で勃発した賛成派と反対派の大乱闘にヒントを得たにちがいない(この大乱闘のせいで「春の祭典」初演は「春の虐殺」という大変スキャンダラスな見出しの新聞記事にもなった)。つまりこの大乱闘があってこその「べけれ」なのだ。たいへん俗悪でキュートな「べけれ」である。
 

2016-12-06

「べし」の技法(1)


もし今これを読んでいるのが俳人なら、このタイトルから正岡子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」をまずもって想像するのではないかと思う。だが本日の「べし」はそれではない。

虫の音や我ら遠方より来たる  月犬(白土三平『忍者武芸帖影丸伝』)
 秋思に沈むケムンパスべし  なむ(赤塚不二夫『もーれつア太郎』)

ウラハイで見つけた五吟マンガ歌仙「虫の音の巻」から冒頭を引用。脇句「秋思に沈むケムンパスべし」の「べし」が素晴らしい。ふつう「べし」は活用語につくが、ここはケムンパスの体からいきなり「べし」が生えた方が愛らしいにきまっている。かくしてもはやこの「べし」は田島健一の「ぽ」と同じく切れ字の域に達してしまったわけだが、同じ作者に「べし」をふつうにキャラとして使用した句もあって、これも腹が立つくらいかわいい。

万緑やけむんぱすよりべしが好き  佐山哲郎

2016-12-05

連句と『オルガン』


最近、連句への興味が強くなりすぎて困っている。きっかけは『川柳時評』で小池正博さんが野間幸恵さんの「琴線は鳥の部分を脱いでゆく」という俳句の構造を、

琴線はわが故郷の寒椿
鳥の部品を包む冬麗
うすもののように記憶を脱いでゆく

と、連句風に再構成してみせていたこと。この三句の渡りを見て、ああどこかの隠れ家でこんな大人のエレガンスが営まれているのか、と恋するような気持ちになった。さらにはこちらの書誌一覧も読んでしまったために、これは下手に近づいたらやばいかも、俳句を書く時間がなくなっちゃう…と思いながらびくびく暮らしているのである。そんなところへ『オルガン』7号が届いた。開いてみると、なんと連句の特集だ。

もっとも、幸か不幸か、この号で巻かれていた「オン座六句」にはじぶん好みの快楽はなかった。こっちはぐっと背伸びして遊びたいが為の連句なので、過度の簡略化は残念以外のなにものでもない。さらにめくるめく旅の享楽にも浸りたいゆえ、場面展開はより鮮やかな方がいい。自由律の導入は斬新でとても惹かれるものの、気ままの愉悦をより深く味わうためにもそれ以外の連ではもっとマゾヒストでいたい。こんなことを書くとそれなりに連句に通じているみたいだが、実は2度ほど参加したことがあるだけで(そのひとつがこちら)ルールもよく知らない。だからこの所感は、今回巻かれた「オン座六句」の文字並びに恋できるかできないか、ええ、ただそれだけに拠っているのでした。

ところで今号の『オルガン』、俳人たちの作品の気分がすごく似ている。ふつう「似ている」というと資質・方法・趣味他なんらかの要素がカブっていることを指すのだろうが、彼らの場合はそういうのではない。まるで大きな模造紙を床に敷きつめて、みんなで愉しく絵を描いて遊んでいるうちにお互いの線がまざってしまっていた、という似方である。それぞれの確固たる流儀で書かれた絵の中に、しかし他人のうっかりつけた手形がそのままになっている、というか。あまりに仲が良さそうで、ちょっとびびる。

2016-12-04

「なう」の歌と「いろは」歌


このタイトルだと越智友亮の「焼そばのソースが濃くて花火なう」を思い出す人もいるかもしれないが、本日の「なう」はそっちでなく古典の方。『閑吟集』に

後影(うしろかげ)を見んとすれば 霧がなう 朝霧が

という歌謡がある。つねづねこの「なう」が良いなあと思っていたのだが、あるとき小池純代の
うつくしう 
噓をつくなう 
唄うなう 
うい奴ぢや さう
裏梅のやう
という「なう」を知った。さらに眺めると各句の頭韻と脚韻が「う」で揃っている。こういった書き方もあるのかと思い、さっそく「いろはうた・いろはうた」の沓冠折句(くつかぶりおりく)を閑吟集風にこしらえてみた(なう、の意味が変わってしまったが)。

言ひかけた論より、見なう、花々は虚(うろ)よいざうろたへな残命  小津夜景

二回目の「いろはうた」は結句側から倒立で仕込んである。どうして「いろはうた」という言葉を選んだのかというと、これを書いたとき小池純代の「いろは歌」が念頭にあったから。
あけのちきりに   明けの契りに
すむこゑも     澄む聲も
いさやおほえぬ   いさや覺えぬ
まとろみへ     微睡へ

よせゐるふねは   寄せゐる舟は
そらゆめを     空夢を
うたひつくして   唄ひつくして
わかれなん     分れなん
うたかたを寄せ集めたような美しい歌。だが言葉はいつもこうあってくれるわけでなく、ときにこの世界をはっきりと名指す。だから言葉のそばにいるとたまに不安になる。このままわたしを無視してくれ、わたしを名指さないでくれ、と思う。

2016-12-03

旅立ちの音


高校生の頃、北海道の実家に帰るための飛行機のチケットがとれず(ちょうど冬の観光シーズンだった)いちどだけ上野発札幌行の寝台特急「北斗星」に乗ったことがある。

当時の「北斗星」は上野駅を発つとき、プラットフォームにいる駅員が大太鼓を連打して乗客を見送ってくれた。ゆっくりと力強く、なんども、乗客の耳に聞こえなくなるまで。大太鼓は、ここから始まる16時間の旅のはなむけだ。

わたしの人生で大太鼓鳴らすひとよ何故いま連打するのだろうか  柳谷あゆみ

わたしがこの歌から最初に想起したのは、
遠い太鼓に誘われて
私は長い旅に出た
古い外套に身を包み
すべてを後に残して
という村上春樹『遠い太鼓』の巻頭に掲げられているトルコの古い唄。掲歌が『ダマスカスへ行く 前・後・途中』という歌集に入っていることを知るやいなやますますこの想起は強められ、ああそうだ、船の出港のとき銅鑼が鳴らされるように、砂の海においても旅のいざないは《鳴りもの》という形で幻影化されるのがもっともふさわしい、と思った。

2016-12-02

坂本直行のスケッチブック


ここ2日ばかりの記事が伴侶(京都人)に評判が悪い。困ったものである。あまりに評判が悪いので、わざともう一回、六花亭の話を書くことにした。

わたしの育った家では六花亭の包装紙を描いている山岳画家・坂本直行の絵が飾られていた。わたしもいつか機会があれば飾ろうと思い、とりあえず何冊か絵葉書のセットを手元に保管している。こういった思いつきも、関西でつんだナショナリスト修行のたまものである。

坂本直行は龍馬を輩出した土佐坂本家の八代目当主。龍馬から見ると甥の孫にあたる。北大で農業を学び、東京で温室園芸に携わり、六花亭の包装紙を描いているという経歴のせいで、地元北海道でも植物画家のように思われている直行だが、中札内にある彼の記念館や札幌にある松山額縁店のサイトで、山のスケッチブックを眺めることができる(画像はすべて松山額縁店のサイトから借用)。


また数百冊あった直行のスケッチブックの内136冊は北大山岳部に寄贈されており、2534点の絵がこちらでアーカイヴ化されている。


スケッチブックは大部分が着色され、知的な線と明快な色が特徴。日記風に文字が入っているのも多く、どれだけ描いても描き飽きないほど山が好きなのがわかる。折よく北海道大学総合博物館では2016年11月4から2017年1月9日の間、坂本直行生誕110年記念企画として「直行さんのスケッチブック」展を行っているようだ。

2016-12-01

はじめての川柳。


柳本々々さんが川柳界に登場するまで、わたしは川柳を一句も知らなかった。

と、思っていたら、きのう六花亭の話を書いていて


開墾のはじめは豚とひとつ鍋  依田勉三

という句を6歳で暗唱させられていたことを急に思い出した。いきさつは次の通り。

ある冬の日、家に帰るとテーブルの上におやつがあった。六花亭の袋に入ったもなかである。なにも考えずいつもどおり食べはじめようとすると母が「ちょっと待って」とわたしを制した。そして「これ、お鍋のかたちなのよ。変わってるでしょう?」とわたしに観察させたあと、このかたちの由来となる上記の川柳とその句意(北海道開拓を行った人々の苦労)を口にした。

つまりね、そんな先人の姿を偲び、後世に語り継ぐために生まれたお菓子だということ。わかった?と母。うんわかった、とわたし。で、なにも考えず食べた。むしゃむしゃと。

この「ひとつ鍋」というネーミングのお菓子、内側はこし餡とお餅で、なめらか&もっちりのサンドになっている。ちなみにもなかの中にお餅が入っているのは北海道ではふつうのことだ。

2016-11-30

ふだん使いのカバン



学生時代を京都で過ごして良かったことのひとつに、ナショナリズム(お国根性)の精神構造を解するようになったことがある。

関西には、人と人との距離が物理的にも精神的にも遠い北海道民からは想像もつかない世界が広がっていた。いったいどんな世界だったのかは省くが、それなりの経験をつんだおかげで今ではわたしもナショナリストとしての作法を
立派に身につけている。たとえば、ふだん持ち歩くカバンを六花亭ブランドにしたりとか。

2016-11-29

挨拶いろいろ


きのうは挨拶歌、挨拶句について書くはずだったのが、酒の話に流れてしまった。もう一度しきりなおして、大伴旅人の讃酒歌は山上憶良のこんな挨拶歌と並んでいる。
憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむそ  山上憶良
わたしはこの歌が「酒宴を中座する際、すでに老人だった作者がふざけて詠んだ歌」であるとは中学校で習わず「作者は家族思いのやさしい人。小さい子供たちの顔が浮かぶようですね」と教えられた。不幸な体験である。真実を知ったのちにこの歌をもういちど見たら、即興ならではの畳み掛けるような言葉のリズムや結句の見得の切り方などが、思いの外パンキッシュであることに気づいた。町田町蔵の作と言われても納得しそう。

一方挨拶句で好きなのは青畝の、

奈良七重七堂伽藍八重桜  松尾芭蕉
山又山山桜又山桜   阿波野青畝

これ。笑っちゃうほどのすごーいサブカル臭。作者が西尾維新でも全然驚かない。「山又山」と「山桜又山桜」の、ミニマリズムなのか単に身も蓋もないのか俄には判断できかねるぶっきらぼうな様式美が、人工知能風のエロスというかなんというか、みぞおちにクっとくる。

ところでわたしも挨拶好きゆえけっこうな数の挨拶句を書き、またそのうちのいくつかは句集にも入れた。えっと、たとえばこういうの  と、憶良、芭蕉、青畝とやばいくらいの有名人のあとに自作を出すのは正直じぶんでも頭おかしいと思うのだけれど、ここはわたしのブログなのでその辺あまり気にしないでほしい。なにとぞ。

中年や遠くみのれる夜の桃  西東三鬼
夜の桃とみれば乙女のされかうべ  小津夜景

2016-11-28

じかに抱き合う


挨拶句、挨拶歌が好きだ。誰とわかる人への応答でなくてもかまわない。なんというか、さらりと消息を通わせあう気分の作品、に惹かれるのである。

単に惹かれるだけでなく、わたし自身いつも誰かと、あるいは何かと唱和しあう気持ちで俳句を詠んでいる。俳句のことをかけがえのない《贈答品》だと思っているらしい。

● ● ● ● ● ● ● ●

さいきん立て続けに知人が遊びにきたり、ボジョレー・ヌーヴォーの解禁があったりしたせいで、アルコールめいた気分で暮らしている。毎年この時期は、酒の歌が頭に浮かんでは消える。たとえば大伴旅人の連作「酒を讃めたまふ歌」なら次の歌。
酒の名を聖(ひじり)と負ほせし古の大き聖の言の宣しさ  大伴旅人
(酒の名に「聖」とつけたいにしえの大聖人の言葉のうまさ) 

なかなかに人とあらずは酒壷に成りにてしかも酒に染みなむ  〃
(なまじっか人でいるより酒壺になりたい酒に溺れていたい) 
それから小池純代。この人には相当な数にのぼる酔歌があるけれど、
一杯のソルティドッグを嘗めたれば鹽(しほ)のからさと犬のかなしさ  小池純代
これなんか、どことなく俳句の香りが。まぎれもなく短歌なのに。
ほろ酔ひの
ほがらほがらと
頰(ほ)にのぼる
ほのさびしさぞ
ホワイトホオス  〃
連作「ありたれいしょん歌留多」より「ほ」の歌。言葉えらびに力みがなく、酒に似つかわしい俗謡の精神が心地よい。もっとも俗謡の精神も巧みな技も脱ぎ捨てて、この世界とじかに抱き合ったような次の歌が、わたしにとっての一番かもしれない。

よろこびのかくあふれたり卓上にこぼるる酒を惜しと思ふな  小池純代

2016-11-27

文学配布マシン



本日の週刊俳句に、フランスの文学配布マシンについて書いています(記事はコチラ)。公共の場(主に駅)に設置された、誰でも無料で読めるレシート形式の文学自動販売機のお話です。

2016-11-26

フランスの子供のための俳句参考書


散歩の途中、知らない本屋を見つけた。ガラス越しに覗くと、割と広そうな店内である。とりあえず中を一周してみようと思い足を踏み入れたら、いきなりキッズコーナーに『わたし、俳句を書くよ』というタイトルの参考書が積んであった。


日本のイラストレーションを意識した表紙。えらくまじめというか、なんというか。左隣のフランス風イラストレーションがわがままいっぱいにみえる。


左ページは冬の歳時記をかんがえる問題。色、果物、遊び、衣類、事物、祭、匂、動物、遊興といったテーマから連想する語を挙げてゆこうというもの。右ページは俳句の575構造の説明。きちんと音節を数えている。


左ページは《季語は何の役に立つのか?》について、紀貫之による詩の定義まで遡りながら解説している。右ページは芭蕉の人生の紹介。


暮らしを観察することの大切さについてはかなりページ数が割かれていた。それはそうとラーメンにしかみえないこれ、たぶん年越し蕎麦なのだろうが、日本人だったら、あまり絵心のない人でも蕎麦の麺の感じがこうはならないような気がする(このイラスト自体は素敵。風雅で)。


切れ字の説明。フランスでは切れ字のひとつの方法として「!」を用いる。本書によると切れ字というのはワンダーの導入であり、仮に「かたつむり/ゆっくりのぼる/富士の峰(Petit escargot / va doucement pour monter / sommet du Fuji)」という句をつくった場合、切れ字の位置は
かたつむり
ゆっくりのぼる
富士の峰!
ではなく、
かたつむり
ゆっくりのぼる!
富士の峰
とするのがいいですよ、富士よりも、3776メートルもあるこの火山をのぼるかたつむりの方こそ感動だから、とのこと。超わかりやすい。で、たぶんこの切れ字理論の進化系が、


ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ  田島健一

なのだなと独断する。この辺、詳しく知りたい方はどうぞ「ハロー・ワンダーあるいは道徳の原理」をお読みください。

2016-11-25

風の立つ一瞬


海を眺めながら、また聞きながら、いつのまにか愉悦にウツツを抜かしていた自分にはっと気づくことがある。あ、いま確かにウツツが抜け落ちていた、といった意識は事後的なものでしかないが、それでもウツツなき世界の、その何もない感触は起きたての夢のようにありありと身体に残っていて、胸が痛くなるほどだ。

これと同じことは風の中でも起こる。風が立つとその瞬間、ウツツは消し去られ、心の中がウツ(空)となる。ウツツに戻ってきたあともウツの感覚は残っていて、わあ、すごくからっぽの、この感じはなんだろう、とびっくりする。

風が立つたび、からっぽという感覚を、人間の身体が刻印として実感できるということ。そんな、日常のばかばかしさ、がうれしい。

さらさらときな粉の問いは飛ばされる  竹井紫乙

2016-11-24

足りないくらいがちょうどよい。



ゆうべは知人と今年さいごの外食。三週間ぶりの夜の街はずいぶん街路樹が熟していて、ほとんど散ってしまったものもちらほら。

帰宅してから塚本邦雄の短歌と文章を読む。塚本邦雄はとても苦手だ。もともとわたしは苦手なものが大変多い人なのだが、塚本の場合どのへんが苦手なのかというと、仕事量が尋常でないところ。もう10冊以上読んでいるのにいっこうに著作が減らない。実は何冊本を出しているのか調べようとしたこともある。ところが書籍一覧を目にした瞬間、心がシャットダウンを起こして数えるのを止めてしまった(主要著作だけでこの量だ。頭がどうかしてる)。わたしの好みとしては作家一人につき10冊くらいまでがちょうどよく、それをすみずみまで味わい尽くして、そのあとは、あーあもう読むとこなくなっちゃった、さみしいな、さみしいな、もっと読みたいよう……とせつない余韻に浸りたい。それなのに塚本ときたら「まだこんなにあるんですか!」と叫ばせようとするんだもの。困る。

2016-11-23

ゆらめく閃光



俳句を書くことのおもしろさは「モノをつくることの目的はモノをつくることそれ自体である」という原理がみえやすいところだと思う。もちろん他の文芸でも似たような感触を得ることは可能だ。が、いかんせん俳句よりも(主に文字数の関係で)表現を宿しやすい分、他人の目線といった内省が初手からついてまわる。

「わたしはこのような体験をした」と意識する以前のこころのうごき。「人に伝わるように(或いは伝わらないように)書くには?」と思案する以前のことばのかたち。コミュニケーションに侵される以前の、どことなく見慣れない文字。そんな文字に囲まれて一人遊びに没頭するたのしさ。飽きるまでつづく戯れのさなか、ひょい、と思いがけないかたちに積み上げられたことばの、あの感動的なゆらゆら。

ことばの純粋なる屹立とは、そんな〈ゆらめく閃光〉としか言いようのない神秘のしぐさを指すのではないか? ことばがゆらりと立ち、そして倒れるとき、そこに詩の舞踏を感じるのもまたそういったわけだ。

鳥の巣に鳥が入つてゆくところ  波多野爽波

2016-11-22

透き通る手品師



安福望さんと柳本々々さんの共著『きょうごめん行けないんだ』が楽しみすぎる。

わたしはひそかに安福さんの絵を、柳本さんの言葉にぴったりだと思っていた。柳本さんの饒舌を、安福さんの無言(無口、ではない。念の為)が、そっと見守るように包み込むのを見たいな、と。

安福さんの絵には迸るようなコンセプトがつまっているけれど、そのコンセプトは画家自身の才気や手柄として意識されることはなく、どこまでもまっすぐな贈り物として見る者たちの心に届けられる。安福さんというのは、それを出した自分にではなく、手の上の鳩そのものにみんなの歓声を集める力をもった、透き通る手品師みたいな絵描きだ。

『きょうごめん行けないんだ』では柳本さんの言葉は迷走するかもしれない。いや、確実に生き生きと迷走するだろうし、ことによると奇妙なこだわりを見せながら、愛の挫折に追い込まれてゆく可能性だってある。そのとき安福さんは、その迷走が困った風には見えないよう、ちょん、と柳本さんの頭に三角帽をのっけてあげるだろう。あるいは肩に、白い鳩を。起きてしまった「愛の挫折」を、もっと大きな愛でそっと包み込むような手つきで。

2016-11-21

不在という檻




記憶においては、つい先日のことも幼少期のことも等しく見渡せるように信じがちだけれど、これは夜の星と星とのあいだに距離感が感じられないのとまったく同じ理由で、じっさいには記憶の世界にはあばたのような奥行きがある。そこには思い出されることのない出来事もまた孤独な気泡となって漂っており、なにかの拍子でその気泡が割れるたび、ふだん見渡している記憶とはすなわち自分を取り囲む檻なのだとあらためて気づく。

それはそうと、思い出されることは今となっては全て不在だ。この不在という檻の、呑まれてしまいそうなほどの明るさ。

その朝も虹とハモンドオルガンで  正岡豊

2016-11-20

オンフルールの空の王(info編)



ウジェーヌ・ブーダンについて数人から似たような質問をされたので、インフォメーション編を書くことにしました。


ウィキにあるように、ブーダンはレジオン・ドヌール勲章を授与された人気画家です。モネよりブーダンが好き、と言う人にたまに会いますが、両者の位置関係を比喩的にいうと、おそらく、ドビュッシーよりフォーレが好き、くらいの感じ。
*ル・アーヴルのアンドレ・マルロー美術館(MUMA)にあるブーダン・コレクションは圧巻(写真はブーダンの展示風景。MUMAの頁から)。それに比べると、オンフルールのブーダン美術館は質・量ともに見劣りします。

2016-11-19

オンフルールの空の王(後編)



ノルマンディー橋(1995年完成)はセーヌの河口をまたいで、モネのいたル・アーヴルとブーダンのいたオンフルールとを繋いでいます。


この斜張橋を眺めるたび「空の王様みたいな橋だなあ。しかも絵に描くのにちょうどいい風景だなあ」と思うんです。

2016-11-18

オンフルールの空の王(前編)



クロード・モネに絵の手ほどきをした「空の王」ウジェーヌ・ブーダンは、エリック・サティとならんでオンフルールを代表する芸術家。印象派好きの人にはよく知られた話ですが、ある日ル・アーヴルの文具兼額装屋でモネの描いた漫画をたまたま目にしたブーダンは、1年以上にわたって彼を誘いつづけ、絵筆を持ったことのないこの17才の少年を自分の画塾に入れます。これ、モネは本気で嫌だったらしい。にもかかわらず、最初の授業で川辺に連れ出されたモネは「絵を描くとはこういうことだったのか!」といきなり開眼してしまうんですね。

ブーダンの教えた要点はふたつ。ひとつは戸外で制作すること。もうひとつは空をよく見て、過ぎ去ってゆく瞬間を克明にとらえること。チューブ入りの絵の具が考案されたとはいえ、自然をじかに目で見て彩色するのがまだ画期的だった時代に、ブーダンはデッサンを飛ばしてその画期的次元からモネをスタートさせたのでした。



モネの先生であることが一目瞭然の画風。ブーダンの主なモチーフは海、港、人や牛の群景で、構図はそれらのモチーフを水平線あるいは地平線込みで描き、上半分はほとんど空といったものが大半です。とりわけ得意なのが青い空と白い雲。作品を眺めるたび、空気の流れやその温度がほんのり沁み入ります。

2016-11-17

カモメの食事



カモメは目があうと、わざわざ誇らしげに獲物を見せてくれることがある。あれはなんとかならないのだろうか? わたしは獲物の死骸がダメなのである。いや、死骸じゃなく、生きていてもダメなのだった。いま住んでいるアパートの向かいには中学校があって、6階にある我が家の窓からその広々とした屋根の上が丸見えなのだが、そこでよくカモメが生きたハトを食べている。ぶすりと一刺しし、ハトをびくっと意気消沈させては、ちょっとずつ肉をむしって。三十分は食事にかける。そしてかならず食べ残して去ってゆく。

2016-11-16

ラグビーと俳句


週刊俳句誌上で「みみず・ぶっくすBOOKS」という記事を不定期で書いています。記事の内容は主にフランス語の句集の紹介で、原則として「その辺で安く手に入れた、かわいい本」に焦点を絞っています。稀少本は避ける。値段は千円以下(古本含む)。そして写真うつりが良いこと。お金もなく語学も不得意だけれど、暮らしの中で自分なりに俳句の本を楽しんでみたよ、といったスタンスです。

今のところ反稀少&低価格の原則は守られている一方、写真うつりについてはたまに崩れてしまうことがあります。妙な主題のものを見つけたときとか。もっともそういった本は記事にしません(見ていて退屈だから)。下のジャン=ルイ・シャルトラン『青い芝の上で』もそんな一冊。



副題に「ラグビー俳句」とあるとおり、ラグビーの風景および心得を元選手である著者が102の俳句にした本です。残念ながら紹介したくなるような句はなかったものの、高揚する精神を詩に昇華させたくなったとき、その詩型に選ばれる程度にはポピュラーなんだなあ俳句は、と改めて思いました。

ところで日本の俳句でラグビーというと、あのじわじわくる

帰るラガー鱏(えひ)水槽のなかに死ぬ    赤尾兜子

なんてのは相当特殊で、基本的にはその端正なイメージを青春性あるいは宗教(静謐)性と無理なくかけあわせたものが多い気がします。

ラグビーの頰傷ほてる海見ては    寺山修司
ラガー等のそのかちうたのみじかけれ   横山白虹
枯芝にいのるがごとく球据ゆる        〃
イエスゐるやうにラグビーボール置く   齋藤朝比古

こうして並べると兜子の句もひっくるめて、ラグビーを詠んだ俳句にはわかりやすい品がありますね。今度の週末、えりまきをぐるぐる巻いてさっそくラグビーを観にゆきたくなるくらいに。


2016-11-15

野遊び、きゅんと。



(写真・しおたまこ「ひとり文化祭」より)

11月13日のブログで小池純代の「ありたれいしょん歌留多」を折句と書いたのですが、あのあと「この作品、折句という呼び方で良かったのかな?」と不安になりました。頭韻を揃えているだけだから。こういうシンプルな疑問をぶつける相手がいないのは不便です。

しょうがない。過去はきれいさっぱり忘れることにして折句の話をつづけるとですね、小池純代に「野遊び --- the Japanese syllabary steps」というの別の連作がありまして、その冒頭が

あひみてのいまはうたかた泡沫(うたかた)のエスプレッソに面(おも)伏すパティオ   小池純代

という歌(泡は旧字体)なのですが、いかがでしょう、カフェでうつろなひとときを過ごす男女のこの描きっぷり。つかのまの逢瀬、うたかたのリフレイン、泡立つエスプレッソの修辞、面伏すのが人でなくパティオであるがゆえの、感傷の抑えられたアンニュイ感。死にそうなほどきゅんときます。一読で痺れてしまった自分は真似したい気持ちを抑えきれず、さっそく

さるびあに痺れる指(および)すべからく世界は意味にそびえたつべし 

という折句を書きました。しかしこれだと前後の意味関係がいかにもとってつけたよう。および、という読みも青臭い。で、どうにかしたいなあと思いつつ長いこと放置していたんです。それがある時、俳句にしたらいいかもとひらめいて、

さるびあに痺れし指を陽に吸はす
すべからく世界よ蟻にそびゆべし

こんな風につくりかえてみました。が。短歌の時よりはましになったものの、やはりいまひとつ魅力不足。まだまだ直したいですが、これ、手元に置いたままだと思案の袋小路に入ってしまいそうなので、いったん執着を断つためにブログに出してまうことにします。

2016-11-14

『週刊俳句』のススメ


突然ですが、俳句と自分とのなれそめについて書こうと思います。というのも、どうやら来週の日曜日が週刊俳句(以下「シュウハイ」)の500号記念らしいんですよ。それで自分にとってシュウハイがどれだけ特別なのか、感謝の意味も込めてたまには文字にしておこうかなと。なるべく短くまとめますので、嫌がらずに読んでやってください。

わたしは『豈』の攝津幸彦賞準賞をいただいたことがきっかけで俳句を始めたのですけれど、実をいうとそれ以前にも俳句を書いたことが一回だけあって、それが小中高校時代ではなくてですね、シュウハイ主催の第2回「10句競作」という企画だったんです。この企画が発表された数日後、まさしく文字どおりの偶然から『週刊俳句』という、なんだかよくわからない怪しげなサイトに迷い込んでしまったわたしは、しかし妙にオープンな場の雰囲気をひと目で気に入って、つくったこともない俳句をいきなり「競作」に送りつけました。もっともこのときは中村安伸さんの選を受けたことで満足し、俳句そのものに興味をもつには至らなかったのですが。

俳句はどうでもよかったものの、ごくたまに覗くシュウハイの、あいかわらずぎょっとするような風通しの良さはやはり好ましく、その後もトップ写真を3回ほど投稿したり、俳句と関係のない記事をさがしては読んだりしていました。

先の「競作」から1年と少し経った頃、このブログで見つけた高山れおなさんの『俳諧曾我』をジャケ買いしました。はじめて手にする句集です。これが信じられないくらい肌に合った。で、その作品に感動したわたしは、思わずふらふらとシュウハイに感想文を送った(そしてまた本人に会ってみたいという俗っぽい動機から彼が審査員をつとめる攝津賞にも原稿を送った)のでした。

そんなわけで、俳句とのなれそめが生じたのは、作句文章共に、シュウハイのゆるーい空気のたまものだった訳です。

シュウハイは、ほんとうに、誰でも飛び込みで書くことができます(たぶん)。結社、同人誌、一時のグループとなんでもいいですが、俳句を書くのにそういった仲間は必要ありません。一人で楽しめるのが俳句です。とはいえたった一人で書いている人間が外の世界にアクセスしたくなったとき、それがいとも簡単に可能なのはシュウハイだけだという事実にわたしは何度気づいたことでしょう。そんなわけで、来週500号を迎えるシュウハイには、この先もずっと続いてほしいなって思うんです。もちろんただ続くのではなく、できることなら「これ、立て付けが悪いんじゃないの?」ってくらい風通しの良いままで。はい。

2016-11-13

しおたまワールドから冬の折句へ



しおたまこさんの個展「ひとり文化祭」が表参道のギャラリーニイクではじまりました。しおたまさんのツイッターに展示作品が何点かアップされています。とてもかわいいです。『フラワーズ・カンフー』も扱っています。お近くにお住まいの方はどうぞこぞってご来訪ください。

● ● ● ● ● ●

折句は、きばらずに軽くまとめたものががいい。こんな感じの。

冬に読む文(ふみ)のぬくみの
ふふふふ

ふくみわらへり
ふくらみながら
   小池純代

連作「ありたれいしょん歌留多」より。ありたれいしょんは頭韻のこと。この連作でいちばん有名な歌は「も」の

も、も、ももを
も、もいでもらふ
も、もちろん、も、問題ない
も、も、桃、だもの
   小池純代

だと思いますが、ほくほくした部屋の雰囲気とふみふみした音のうごきが愉しい「ふ」の方がわたしは好き。だからなんということもない、それだけの話なんですけど。けど、おとといの俳句と短歌が少しせつなかったので、楽しい手紙の話もしておこうと思って。

2016-11-12

『フラカン』解体、そして恋心


ある人が、あなたの『フラワーズ・カンフー』に入っているこの句が好きですと言って口ずさんでくれたのだが、どういうわけかそれが俳句ではなくて短歌だった。俳句と短歌の区別がつかなかった、という話ではない。そうではなく、その人はわたしの短歌の、きっかり上の句だけを口ずさんだのだった。

こういうのは初めての体験である。それで、し、しものくは?とおそるおそる尋ねると、これ、下の句は要らないんじゃないっすかね。だいじょうぶですよ、なくて。じゅうぶんガソリン入ってます、という。わたしは、そうか、そうなんだ、そうかもねーと笑いながら、その人がじぶんの好き勝手に『フラカン』を解体して読んでくれていることがうれしくて、心のなかでひゃっほーと踊る。


⌘ ⌘ ⌘ ⌘ ⌘ ⌘

くりかへしくりかへし聽くいちまいの音盤(ディスク)のごとき戀心かな  小池純代

連作「11月のヴァリエテ」より。レコードの素敵なところはくるくる回っているのが目に見えるところ。恋をしたら、くるくるまわりたい。アホっぽく。レコードはたまに、ちゅん、と音がとんでしまうところもかわいい。掲歌は「くりかへしくりかへし」の部分に、始まりを花咲くようにリピートしたい気分と、音のたわむれを終わらせたくない気分とが強く出ていて、こういう恋心って、うーんすごくわかるよ。



2016-11-11

手紙と火


ほどけゆく手紙の中の焚火かな  西原天気

炎の中で手紙が燃えているはずなのに、まるでほどけてゆく手紙の内側から炎が生まれてくるかのよう  紙が燃えるときって、そんなふしぎなゆらめきを感じますよね。トリュフォーの『華氏451』も、本のゆらめき燃えるシーンがとても印象的でした。さらに言うと、焚書の「焚」が焚火でもつかわれる字だということが、この句の光景にささやかな陰影を与えている予感も。

ともあれ、手紙から立ち上るものがその手紙を焼きつくす炎だという状況は本当にせつない。この句を読むたび思い出すのはきのう紹介した小池純代さんの連作「手紙について」に入っているこんな歌。
 

反故やいな乾ききりたる約束の束なれば火をとほざけて讀む  小池純代

もはや瑞々しい記憶を失ってしまった手紙。なんの匂いもなくなってしまった手紙。自らを一瞬で火だるまにすらできる手紙。そんな怖ろしい光景をぜったいに見ずにすむよう、過去の手紙は細心の注意を払って手にしなくてはいけない。とくに物思いの秋は。



2016-11-10

すがしき野にて


前略の門(かど)をくぐりて歩むどち語らひながら草草(さうさう)の野へ  小池純代

連作「手紙について」より。

スタートからゴールに至る言葉の流れに「うーん」とうなってしまう。「門をくぐる」という演出が、ひょいと身軽な出立を感じさせる「前略」。「語らひながら」の「ながら」には、これが四句に位置しているせいで、時を忘れていつまでも会話を楽しんでいる様子が滲み出ているし、結句ですっと「野」へ出てしまう展開も美しい。

それにしても、この「草草の野」という言葉を見るたび、とても幸福な気分になるのはなぜだろう? この野に出てしまったら最後、もうお別れなのに。

いずれにせよ、気の合う人とのお別れは、こういった、ひろびろとした場所でしたい。しばしのお別れをぐっと我慢して、すっきりと、涼しい感じでしたい。そして、別になんでもなかったような顔をして、なるべく早く、また会いたい。

野の色で終はる出逢ひが此処にある  小津夜景

2016-11-09

ローカル・ルールについて



この夏ニースでは「ビーチで服を着るのはNG」という条例が出て、カモメの写真を撮るのにものすごく不便だった。さいわい数十日で廃止されたものの、ひどい思いつきである。

もともとこの町は公共の場の着脱ルールにかんして他所より神経質で、ひとつ例をあげると「水着で道を歩くのはNG」という条例があり、これが本当に厳しく守られている。上の写真の遊歩道も、いかにも水着で歩けそうな雰囲気なのに、そんな人はひとりもいない。

NGなのは水着ばかりでない。裸で道を歩くのも御法度。

先日、近所の停留所でバスを待っていたら、10人ほどの不良っぽい青年が、遠くの方から固まって歩いてくるのが見えた。青年たちは地元民で、ダラダラとその辺を練り歩くのがただ愉しいといった様子。

で、その中の一人が上半身裸だった。

珍しいものを見たと思っていると、停留所の鼻先にあるカフェの女主人がいきなり店外にわっと飛び出してきた。そして「うちの店の前を裸で通るな。通るなら警察を呼ぶぞ!」とものすごい剣幕で青年たちを説教しはじめた。訳がわからないのは、青年たちがそのまま店の前を通りすぎたりせず女主人に言い訳していたこと。結局5分ほどしてパトカーがやってきたのが分かると、青年たちはいま来た道をすごすごと引き返していった。

女主人の勇気もすごいが、青年たちの行動も奇妙すぎる。不良とは思えない。もちろん奇妙に見えるのはわたしが日本人の眼鏡をかけているからであって、この世には自分の考えている以上にデリケートな地元の掟(ローカル・ルール)があるという話にすぎないのだけれど。

2016-11-08

学生寮へゆく



日曜日、中国から短期研究で来る知人のために大学の学生寮の手続きにゆく。とても陽気の良い日だ。寮の隣のグラウンドではインド人の集団がクリケットをしている。日頃からインド人に対してはときめくような妄想を抑えられない自分だが、フェンス越しに眺める彼らは歌うでも踊るでもなくさらにはクリケットもひどく下手で、現実とはまことに不如意なものだと思う。

エレベーターホール
郵便受けルーム
室内1
室内2(部屋の奥から撮影)
室内3(入り口から撮影)

このように、非常にイケアっぽい雰囲気。室内を見たとき、独身だったら住んでもいいかなと一瞬思ったが、どうだろう、似たような境遇の人間がひしめく空間というのは、あんがい気が休まらなくて大変かもしれない。