2018-03-01


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2018-01-21

文芸評論とはフリースタイルである・中編


ところで先週『俳句年鑑2018年版』で堀切克洋さんの「『戦後』からの訣別を」を読みました。これ、とても見晴らしの良いレビューなのですけど、そこで堀切さんが関悦史さんの『俳句という他界』を「貴重な書」とみなしつつも、そこでの現代思想用語の使い方を「多くがキーワード的であり、引用の根拠が弱々しい。あとがきにも帯にも『評論集』とあるが、少なくとも私の基準でいえば、これはあくまで『エッセイ集』である」とまとめているのを見て、あ、そういう風にかんがえるんだ、と感じるところがありました。

なんだか学術論文指導の寸評みたいだな、と思ったんです。

学術論文の書き方は知っておくと便利(知らないとたぶん厄介)。とはいえ文芸評論とはフリースタイルの演技。決して規定演技ではありません。きれいな八の字や二回転半を飛ぶより、失敗した四回転の方が価値を持つことも少なくない。単に挑戦して偉いぞってな「蛮勇を讃えましょう的価値」ではないですよ。そうではなく、その失敗した四回転が文学それ自体の可能性を蘇生させることにつながりうる、といった批評におけるきわめて本質的な価値です。

関さんが『俳句という他界』で使用したいくつかの語は、俳句における新たな「分類」を試みてのことでしょうが、堀切さんが具体的に名前をあげた前半の作家論については、作品の別の相貌(読み方)がよく創案されていると思います。

またもし仮にキーワード的だったとしても、文芸評論がアクロバティックであっていけないわけがない。そもそも文芸評論ってキーワードを放り込むものです。このキーワードは哲学における概念に相当するわけですが、それを展開・発展させるのは批評の現場全体であり、また何が育てるに足るキーワードかを判別できることが批評の才でもありましょう。

キーワード(概念)の探求とその相互批判は、批評の現場を活性化させます。また今の文芸評論において最も弱いのはジャンル横断的な迫力をもつキーワードを仕掛けてゆく野望じゃないかな、なんて思ったりも。

ともあれ文芸評論がエクリチュールのあり方も含めたアクティヴな(とうぜん失敗込みの)表現活動であることは、それらが力を持っていた時代の本を開けばわかります。

文芸評論が社会で力を持たなくなってほんと久しい。周囲を見回してもブックレビューと学術論文風の仕事が多く、言葉の手順が一定の型に収まっている印象。そんな折たまたま目にした堀切さんの、評論に対する個人的基準が明快だったことで、じぶんの頭の中をぼんやりを整理するきっかけを得、上記をメモ書きしました。

2018-01-20

文芸評論とはフリースタイルである・前編


ここ数ヶ月間、ひとり遊びが嵩じて、漢詩にまつわる論文を毎日あれこれ読んでいるのですが、学問の極意が「分類」にあることは古今東西不変だなあ、と改めて感じています(これ、学問がモノとモノ、記号と記号との関係を扱う以上、とうぜんなのですけど)。

「分類」にはその人の知的センスが露骨に出ますよね。また今まで縦に「分類」していたものを横に「分類」するだけで、新しい学派や学問が生まれてしまったりする現象も面白い。

フーコー『言葉と物』の導入部では「分類」による知のあり方の一例が、とある支那の百科辞典を元に説明されます。


動物は次の如く分けられる。(a)皇帝に属するもの、(b)香の匂いを放つもの、(c)飼いならされたもの、(d)乳飲み豚、(e)人魚、(f)お話に出てくるもの、(g)放し飼いの犬、(h)この分類自体に含まれているもの、(i)気違いのように騒ぐもの、(j)算えきれぬもの、(k)駱駝の毛のごく細の毛筆で描かれたもの、(l)その他、(m)いましがた壺をこわしたもの、(n)遠くから蠅のように見えるもの。

『言葉と物』は言葉がいかにして権力装置たりうるかを語った本ですけれど、そうしたハードな本論の前に「エピスステーメーの相違によってまるきり違う世界の相貌が立ち現れる以上、人間はまた言葉によって自由になりうるのだ」ということを語り忘れていないってのが、ああ、いいなあと思いますし、上記の(本当の)出典にもユーモアがあるし、世界をクールに分析しつつそれに対する包容力を失わない本人のキャラも興味ぶかいところです。

2018-01-18

雪の結晶



しおたまこさんデザインの箱。去年スピカで「かたちと暮らす」という連載を担当しました際、書こうと思って書けなかったのをさっき思い出し、写真を載せてみました。

雪の結晶を図案化したのだそう。

箱の中には、まこさんデザインの洋服が入っていました。いちど東京でお目にかかったとき、まこさんはこの洋服の赤いヴァージョンを完璧に着こなしていて、とてもキュートでおしゃれだった。

2018-01-17

玩具的に。



ある人のおうちで実演してもらって、あ、面白そうだなと思ったのを、そのまましばらく忘れて過ごしていたのですけれど、先週末にフライングタイガーで見つけて思い出し、ふらっと買ってしまいました。

腹筋ローラー。めっちゃかわいい道具ですね、これ。

楽勝だと思ってたのに、まだ一回もできません。腹筋以前に、まずもって上腕筋の力が要るみたい。

でも、すごく嬉しくて、ことあるごとに戯れています。玩具的に。

2018-01-16

冬のホテルで、夕日を眺める。



港近くの丘にあるホテル。その一室から夕日を眺める。

☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆

幼稚園を三回、小学校を三回転校したのだけれど、同じような場所は一つもなかった。

一番ショックだったのが、8歳のときの先生。この先生は授業をすぐ自習にした。

今日は自習だよ、と先生が言うと子供たちは歓喜の声を上げる。そしてみんな思い思いに遊びだすのだが、先生が愛用の楽器をとりだすとみんな遊びをやめて、わっと先生のまわりに集まる。

先生の愛用の楽器は尺八である。楽譜もちゃんと立てる。わたしはこのクラスに入って、生まれてはじめて尺八の楽譜を見た。

先生のライヴが始まる。子供たちはひとり残らず黙りこむ。

音楽を聴いているのだ。

わたしは子供たちの集中力に絶句した。そして自分だけが、近代教育に毒された、とても不純な存在であるように感じたのだった。

2018-01-11

ある冬の日の思い出



きのうは結婚記念日だったらしい。

同居人と一緒になって15年、思えば「夫婦の共同作業」的な会話をしたことがない。

唯一なされたそれらしい会話は、「僕と結婚してくれますか?」とプロポーズされた一週間後に「はい」と答えたことかもしれない。

彼がわたしの姓になった時も、事前になんの話し合いもなかった。


婚姻届を出しに行ったのは、べらぼうに天気の良い冬の朝。青空の下、ふたりで旧街道をぶらぶら歩いて役場に行き、夫となる人がなにやら記入しているようすを横からひょいと覗いたら、戸主が私になっていて、さらに彼の姓が変わっていたのだけれど、とくになんにも思わなかったので、そのままぼんやり眺めていた。

婚姻届を出したわたしたちは、別の道を散歩しながら帰ることにした。

雲ひとつない青空のどこに鳥がひそんでいるのか、のんびり歩いていると、さえずりが空中から降ってくる。

いつしか夫の実家に到着する。お昼ごはんは義理の両親が懐石料理に連れて行ってくれた。また晩ごはんは義母がお祝いの料理を作ってくれて、その日はとても楽しかった。

2018-01-09

はがきのステキさ。



牟礼鯨さんから『然』が届く。

『然』は官製はがきを使用した個人誌で、コンセプトは「一枚刷のようなリトルプレス」。ご本人の近況、地域の景観、俳句などが載っています。文章の縮約具合が凛と美しく、デザインもフォントも収まりがよく、昔の新聞の切り抜きみたい。

それにしても、はがきを俳句のメディアとしてつかうのって、すごくいいですね。

ふだんは俳句に限らず、何の雑誌を見ても、文字が多いなあとか、どうしてこんなに書くことあるんだろうとか、そもそもこんなに書かないといけないのだろうかとか、ふっと思うんです。

それがはがきだと隅から隅まで読める。それで特に情報が少なすぎる感じもしない。むしろこれこそ一回あたりの適量だと思うくらい。

その一回あたりの適量を演出する〈うつわ〉として、はがきというメディアはぴったり。お便りそのまんまの姿をしているので、貰った側のこころに届きやすいような印象も。


青空を複写してゐる半夏生  牟礼鯨